岩手開発鉄道の思い出

思わぬ所で岩手開発鉄道の話が出た。

この岩手開発鉄道には、小学生の時に乗ったことがある。
だからギリギリ「昭和の思い出」ということになる。

あの時は既に三陸鉄道が開業していたので、大船渡には列車で行くことができた。

大槌の駅員は吉川晃司みたいな感じの髪型の若い駅員で、手書きで「盛」と書き込まれた補充券のような薄い切符だった。

釜石から三陸鉄道に乗って盛に到着。

開発鉄道の盛駅は、盛駅を出て踏切を大回りして行かなければいけなかった。

その開発鉄道の駅は、小さなホームに小さな待合室が立っており、その中に切符売り場があるという形態だった。
しかし切符売り場にも誰もいない。

当時は、終点の岩手石橋まで行くのが1日3往復、その間に日頃市までの区間運転になるのが2往復、というダイヤだったはずだ。
そして運賃は110円。国鉄より安かった。

昼の岩手石橋行きの発車が近づくと、高木ブーに似た駅員がノソノソと切符売り場に歩いてきた。

「岩手石橋まで、子供1枚」。

子供運賃はいくらだろう?
国鉄みたいに端数切捨てなら50円、岩手県交通みたいに波数切り上げなら60円になるはず。

「じゃ55円」。

え?
端数切り上げでも切り捨てでもない、5円単位の鉄道やバスなんて生まれて初めてだった。

兎も角もやってきたのは、あの「特徴が無いのが特徴」というキハ202だった。
客は自分の他に2名いたが、いずれも同業者だった。

キハ202の運転士は柳沢慎吾に似た若い運転士だった。

「思い出ノートに書く?」
そう言って大学ノートを手渡された。

どうやら、この時点で岩手開発鉄道の旅客輸送は「マニア」が結構な数を占めていたようだった。

柳沢運転士(仮)は言う。
「廃止するななんて言うけどね、旅客列車は100円稼ぐのに700円も掛かるんだ」
当時、国鉄のローカル線廃止がいろいろ言われていた頃で、どこの鉄道の現場でも「営業係数」という考えは浸透していたのだろう。

キハ202は山道を登って行く。
日頃市で停車するが、すれ違いの貨物列車は来ない。
土日だと休むようだった。

終点の岩手石橋が近づくと、駅でもない所で停まる。
そして逆に向けて走り出した。

岩手石橋は、スイッチバック式の終点駅だったのだ。

岩手石橋の駅舎は、まるで民家のような2階建ての建物だった。
ほどなくして折り返しの盛行きとなって帰途に就く。

そんな旅だった。

 

showa
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