岩手開発鉄道の思い出
思わぬ所で岩手開発鉄道の話が出た。
前日、酔っ払って盛駅まで寝過ごしまして(笑)
駅前旅館に泊まった所おかみさんに「開発に来たんですか?」と言われ「いえ、旅行出来ました」「うちに泊まるお客さんは皆、開発に行くんですよ」「凄いんですね」とちぐはぐな会話をしていて気が付きました!
ココから岩手開発鉄道が出ている!とw pic.twitter.com/kzDSG9PXVT— 茶 (@nuruiocha) November 18, 2020
この岩手開発鉄道には、小学生の時に乗ったことがある。
だからギリギリ「昭和の思い出」ということになる。
あの時は既に三陸鉄道が開業していたので、大船渡には列車で行くことができた。
大槌の駅員は吉川晃司みたいな感じの髪型の若い駅員で、手書きで「盛」と書き込まれた補充券のような薄い切符だった。
釜石から三陸鉄道に乗って盛に到着。
開発鉄道の盛駅は、盛駅を出て踏切を大回りして行かなければいけなかった。
その開発鉄道の駅は、小さなホームに小さな待合室が立っており、その中に切符売り場があるという形態だった。
しかし切符売り場にも誰もいない。
当時は、終点の岩手石橋まで行くのが1日3往復、その間に日頃市までの区間運転になるのが2往復、というダイヤだったはずだ。
そして運賃は110円。国鉄より安かった。
昼の岩手石橋行きの発車が近づくと、高木ブーに似た駅員がノソノソと切符売り場に歩いてきた。
「岩手石橋まで、子供1枚」。
子供運賃はいくらだろう?
国鉄みたいに端数切捨てなら50円、岩手県交通みたいに波数切り上げなら60円になるはず。
「じゃ55円」。
え?
端数切り上げでも切り捨てでもない、5円単位の鉄道やバスなんて生まれて初めてだった。
兎も角もやってきたのは、あの「特徴が無いのが特徴」というキハ202だった。
客は自分の他に2名いたが、いずれも同業者だった。
キハ202の運転士は柳沢慎吾に似た若い運転士だった。
「思い出ノートに書く?」
そう言って大学ノートを手渡された。
どうやら、この時点で岩手開発鉄道の旅客輸送は「マニア」が結構な数を占めていたようだった。
柳沢運転士(仮)は言う。
「廃止するななんて言うけどね、旅客列車は100円稼ぐのに700円も掛かるんだ」
当時、国鉄のローカル線廃止がいろいろ言われていた頃で、どこの鉄道の現場でも「営業係数」という考えは浸透していたのだろう。
キハ202は山道を登って行く。
日頃市で停車するが、すれ違いの貨物列車は来ない。
土日だと休むようだった。
終点の岩手石橋が近づくと、駅でもない所で停まる。
そして逆に向けて走り出した。
岩手石橋は、スイッチバック式の終点駅だったのだ。
岩手石橋の駅舎は、まるで民家のような2階建ての建物だった。
ほどなくして折り返しの盛行きとなって帰途に就く。
そんな旅だった。