第32漁吉丸遭難事件(S52.6.7)

昭和52年6月7日、宮古港を母港とするサケ・マス漁船「第32漁吉丸」が北洋で遭難・転覆し、多数の乗組員が死亡・行方不明となった。この事故は宮古港所属漁船としては戦後最大の漁船海難事故とされ、漁業関係者に大きな衝撃を与えた。

事故の背景には、サケ・マス漁の国際的な漁獲制限(二百海里問題)による制約の強化があった。昭和52年は初めて漁獲枠が設定された年で、従来の「できるだけたくさん獲る」というやり方が通用しなくなりつつあった。漁期の開始も交渉の遅れで例年より遅く、焦りから過剰操業が常態化していた。

第32漁吉丸も例外ではなく、一航海での大量水揚げを狙い、長時間労働・過積載・片寄った燃料消費などの無理を重ねたとみられる。事故当時、すでに操業終了の無線連絡をした直後に消息を絶っており、遭難はその直後に発生したとされる。

救助された乗組員の証言や遺族の言葉には、怒りと悲しみ、そして漁業の過酷さへの憤りがあふれていた。「漁業で家族を養うには無理をするしかない」「いつまでこんなやり方を続けるのか」といった声が相次ぎ、漁業関係者の間では「時代の犠牲」という言葉も広がった。

この事故を契機に、日本の漁業界、とりわけサケ・マス漁においては従来の操業スタイルを見直すべきだという議論が高まり、「第2、第3の漁吉丸を出さないために」新たな漁業の在り方を真剣に模索すべきという認識が強まった。事故は、国際情勢の変化に対応できない日本漁業の構造的な問題を突きつける教訓となった。

 


showa
  • showa

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です