a盛岡・岩手郡・紫波郡 14 2月 1950 農村の衣食住学校「セツルメント」(S25.2.14新岩手日報) 県内各地で農村女性の衣食住学校「セツルメント」が開催されていた。 その中の一つ、紫波郡赤石村のセツルメントについて触れている。… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 13 2月 1950 料飲街不況でキャバレーも食料品店に早変わり(S25.2.13新岩手日報) インフレなどで料飲店は不況だったようで、盛岡で数少ないキャバレーも食料品店に早変わりするという有様であったと。… 続きを読む
h水沢・江刺・胆沢郡 10 2月 1950 輸出品として期待される江刺郡黒石村の寒天(S25.2.10新岩手日報) 江刺郡黒石村(現在の奥州市水沢黒石)では寒天生産が盛んだったようで、輸出資源としても期待されていた。 … 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 10 2月 1950 山のボンペイ街のチャコ「くまのにぐ かわねスか」(昭和25年2月10日) 昭和25年2月10日の新岩手日報より。 連載されていた漫画「山のボンペイ街のチャコ」では、開墾者の所に行っていたようで、熊の肉でお別れという一幕となっている。 しかし「くまのにぐ かわねスか」とは、声に出して読みたい盛岡弁である。 … 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 8 2月 1950 はやる悪性感冒 まずは予防が第一(昭和25年2月8日) 昭和25年8月8日の新岩手日報より。 冬と言えば、悪性の風邪が流行りやすい季節。それで、岩手県や盛岡市当局や、盛岡市内、各病院では予防を呼びかける広告を出した。 … 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 6 2月 1950 金詰まりで衣類の投げ売り(昭和25年2月6日) 昭和25年2月6日の新岩手日報より。 この時期、金詰まりで市民の購買力も減退し、衣類も投げ売りせざるを得ない状況であったという。 … 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 6 2月 1950 三田定則岩手医大学長死去(昭和25年2月6日) 昭和25年2月7日の新岩手日報より。 法医学の父と呼ばれ、岩手医科大学の学長であった三田定則が死去。 大学では大学葬を行うことになった。 … 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 5 2月 1950 かるた大会は老巧組がアプレゲール組を破る(昭和25年2月5日) 昭和25年2月6日の新岩手日報より。 新岩手日報社の主催でかるた大会が開催された様であるが、老巧組の方が、若者組を圧倒したようだ。 そして若者組を「アプレゲール組」と表しているのも時代相。 … 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 4 2月 1950 岩手公園に珍獣「モモンガア」(昭和25年2月4日) 昭和25年2月4日の岩手日報より。 岩手公園に「モモンガア」という珍獣がお目見えしたという。 これは、二戸郡石切所村(現在の二戸駅周辺)の住民が捕らえたものであるという。 … 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 4 2月 1950 山のボンペイ街のチャコ「色々なランプ」(昭和25年2月4日) 昭和25年2月4日の新岩手日報より。 この当時連載されていた「山のボンぺイ街のチャコ」では、ランプが話題になっている。 昭和20年代であれば、山奥の集落に電気が通っていたということ自体がまれで、ランプに頼る生活をしていた。 しかし、盛岡視点のチャコにしてみればやはりそれは珍しいものであ… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 3 2月 1950 節分も「鬼に追放令」(昭和25年2月3日) 昭和25年2月4日の新岩手日報より。 2月3日には節分として各地で行事が行われたようであるが、公職追放やレッドパージの時代であっただけに、節分までは「追放令」などと表現される時代。 … 続きを読む
l全県 2 2月 1950 山のボンペイ街のチャコ(昭和25年2月2日) 昭和25年2月2日の新岩手日報より。 連載されていた「山のボンペイ街のチャコ」では、スズメ捕りにについて扱っている。 この時のスズメの鳴き声は「チューチュク」と表現されている。 … 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 1 2月 1950 盛岡市内の小売店「煉醤油特配しますよ!」(昭和25年2月1日) 昭和25年2月1日の新岩手日報より。 広告欄には「煉醤油特配」という知らせがあるが、しかし「煉醤油」とは? 醤油がコンデンスミルク(加糖練乳)みたいになってるということ? … 続きを読む
e釜石・遠野・上閉伊郡 14 1月 1950 釜石みそ・しょうゆ販売登録店ご挨拶(S25.1.14岩手新報) この当時は、味噌や醤油は登録した店でないと売れなかったらしい。 ということで、その登録した店舗による新聞紙上でのご挨拶。… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 14 1月 1950 入院中の皆さん!GHQのお達しにより必ず病院給食を食べましょう!(昭和25年1月14日) 昭和25年1月14日の岩手新報より。 盛岡市内各病院が連名で広告を出しており、「GHQのお達しもあり、必ず給食を食べましょう!」と。 給食代が払えないから食べませんということだったのだろうか。 … 続きを読む
i一関・西磐井郡 12 1月 1950 一関に競輪場?(S25.1.12岩手新報) この時期、一関に競輪場が設置される計画があったようで「5月ごろには完成」などという計画があったようだ。 … 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 12 1月 1950 不良化する盛岡の盛岡の戦後派学生(S25.1.12岩手新報) 盛岡市警察署管内でも、青少年は不良化しているようであった。 ダンスホールで不純異性交遊するなど。 … 続きを読む
j東磐井郡 12 1月 1950 東磐井郡の「糸姫」は業界不況で求人激減(S25.1.12岩手新報) 岩手県内有数の繭所として知られていた東磐井郡は、女性は嫁入り前に他の地方に製糸工場に働きに出るようになっていたようだ。 ところが、この時期は業界不況で、全国からの「糸姫」の求人に少なくなっていたようだ。 … 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 11 1月 1950 盛岡で隠退蔵物資の大売り出し(昭和25年1月11日) 昭和25年1月12日の新岩手日報より。 盛岡市内では、1月11日に隠退蔵物資の大売り出しが行われたと言う。 それから、主婦が違う目を皿のようにして探し回っているわけだ。 … 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 7 1月 1950 岩手郡各町村が「A happy new year!」(昭和25年1月7日) 昭和25年1月7日の岩手新報より。 岩手郡各町村が新春広告。 戦後なので取ってつけたような英語。 … 続きを読む
e釜石・遠野・上閉伊郡 4 1月 1950 釜石から北朝鮮への帰国者の記念植樹(S35.1.4岩手東海新聞) 釜石市から、北朝鮮に帰国する帰国者が10名いたのだそうで、それを記念して植樹が行われた。 … 続きを読む
l全県 12 11月 1949 大豆を1俵供出したら「大豆宝くじ」(S24.11.12岩手新報) この時期、米と同様に大豆も「供出」の対象だった。 この供出をスムーズに進めるために「大豆宝くじ」を企画したのだという。 これがどれだけ大豆の供出に役に立ったかは不明。… 続きを読む
b二戸・二戸郡 12 11月 1949 奥中山のさらに奥の開拓部落(S24.11.12岩手新報) 北上川と馬淵川の分水嶺である奥中山の、さらに奥にある開拓部落である下田子部落に入植した開拓民の話。 「日本のチベット」岩手県にはこんな部落がいくらでもあった。… 続きを読む
l全県 9 11月 1949 県「11月10〜16日は結核予防週間です!」(昭和24年11月9日) 昭和24年11月9日の岩手新報より。 岩手県衛生部・各保健所・岩手県医師会の連名で結核予防週間に関する広告が出されていた。 個人的なことを言うと、BCG検査に関しては小学校の頃(昭和50年代末頃)受けたことがある。 結核は恐ろしい病気だったのだ。  … 続きを読む
c久慈・九戸郡 7 11月 1949 九戸郡の奥地にも電灯が(昭和24年11月7日) 昭和24年11月7日の岩手新報より。 九戸郡山根村や山形村小国では、それまで電気が通っていなかったが、農林省から補助金が下りることが決まり、「無点灯部落」を脱することができるのだという。 … 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 7 11月 1949 炊事や採暖にはスズキ式ストーブを!(昭和24年11月7日) 昭和24年11月7日の岩手新報より。 炊事にも使用できるという「スズキ式ストーブ」の広告が出ている。 燃料は「亜炭でも何でも完全燃焼します」とある。 亜炭は、石炭化度の低い、石炭としては質の低いものではあったが、製鉄用などとは違い、家庭用にはこの程度でも十分で重宝されたのだという。 &… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 3 11月 1949 盛岡で町内会対抗野球(昭和24年11月3日) 昭和24年11月4日の岩手新報より。 盛岡市内では、町内会対抗の野球が開催されたようである。 また、水沢競馬では、大穴が出たようで、そのことも報じられている。 … 続きを読む