a盛岡・岩手郡・紫波郡 1 12月 1950 弘前無尽「無尽契約30億円達成御礼!」(S25.12.1岩手新報) 昭和25年12月1日の岩手新報より。 当時の弘前無尽(現在のみちのく銀行)は、無尽契約の累計が三拾億円(30億円)に達したことを記念し、感謝広告を紙面に掲載している。これは昭和25年10月末時点での記録であり、「東北無尽業界に新記録をつくるにいたりました」と誇らしげに記されている。 広告文面では、地… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 14 3月 1930 盛岡・内丸座で「明眸禍」「空中サーカス」「闇・後日譚」公開!(S5.3.14岩手日報) 昭和5年3月14日の『岩手日報』に掲載された映画広告によると、盛岡の内丸座では三本立ての豪華上映が行われていた。文芸映画『明眸禍』、アメリカの航空青春映画『空中サーカス』、そして剣戟時代劇『闇・後日譚』という多彩なラインナップである。 『明眸禍(めいぼうか)』は菊池寛の同名小説を原作にした作品で、昭… 続きを読む
h水沢・江刺・胆沢郡 1 3月 1930 水沢区裁判所で猫を失火罪で訴える珍無類な裁判(S5.3.1岩手日報) 昭和5年3月1日の『岩手日報』には、裁判所で繰り広げられた少し風変わりな一幕が紹介されている。 水沢区検事局から「失火罪」に問われたのは、江刺郡愛宕村(現在の奥州市)に暮らす当時33歳の女性だった。検察は略式命令として罰金20円を科したが、これに納得できなかった女性は、正式裁判を求めて異議を申し立て… 続きを読む
m県外・参考 1 3月 1930 函館で不敬事件発生。内容は極秘(S5.3.1岩手日報) 昭和5年3月1日の岩手日報によれば、函館市で不敬事件が発生し、関係者が拘束された。 事件は、函館地方裁判所の令状に基づき、潮見刑務所支所で取調べが行われたとされているが、その内容は「極秘」とされており、一切が伏せられている。罪名として「不敬罪」が示されているのみで、具体的にどのような発言や行動が問題… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 1 3月 1930 選挙違反の捜査は医師やレントゲン写真まで(S5.3.1岩手日報) 昭和5年の岩手県議会議員選挙をめぐり、盛岡地方裁判所検事局は大規模かつ徹底的な選挙違反捜査を展開していた。 この日報じられたのは、その取り調べが医療の領域にまで及んだという事実である。容疑の一つに「病気を装っていたのではないか」という疑惑が浮上し、検察はその裏付けとして病院関係者を聴取したのみならず… 続きを読む
m県外・参考 1 3月 1930 原敬を暗殺した大塚駅転轍手の家族のその後(S5.3.1岩手日報) 大正10年11月4日、日本の総理大臣・原敬が東京の大塚駅で刺殺された。犯人は当時24歳の鉄道省転轍手・中岡艮一であり、裁判の結果、無期懲役の判決を受けた。 それから9年後の昭和5年3月1日、岩手日報には服役中の艮一の出所が近いという報道が掲載された。その記事では、東京・大塚駅近くで支那そば屋を営む艮… 続きを読む
l全県 1 3月 1930 少年航空兵に県内でも相応な数が応募(昭和5年3月1日) この年から、海軍では新たに「少年航空兵」の募集を始めることとなった。 「少年航空兵」とは、年少のうちから選抜・教育され、将来の海軍航空隊員として育成される制度である。身体的・精神的に健全で、かつ将来的に飛行機乗りや航空技術者としての資質を持つ者が対象とされた。 横須賀鎮守府管内での採用枠は40名とご… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 1 3月 1930 盛岡に「航空少年団」(S5.3.1岩手日報) 昭和5年3月1日の岩手日報より。 昭和初期、盛岡には伊東左内という飛行家がいた。 当時の陸軍の根拠地であった観武ヶ原(現在の盛岡市みたけ一帯)には、彼が自費で設けた「伊東飛行場」が存在していたという。個人で飛行場を持っていたという点で、当時としては相当な情熱と財力が感じられる。 (詳細は以下のブログ… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 1 3月 1930 盛岡の八幡町遊郭では娼妓にアンケート取って改革します!(S5.3.1岩手日報) 昭和5年3月1日の岩手日報には、盛岡市八幡町の貸座敷組合(遊郭)において、時代に即した改革が実施されることが報じられている。 記事によれば、貸座敷組合では、当時約80名にのぼる娼妓に対しアンケートを実施。その結果を踏まえて、以下のような改革案が採用された。 勘定書は仲居に持たせることとし、娼妓の手当… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 6 9月 1929 盛岡には失業者が300人以上(S4.9.6岩手日報) 昭和4年(1929年)9月6日の『岩手日報』には、盛岡市職業紹介所の8月の就職状況が記されている。 求職者は男68名、女17名の計85名だったが、そのうち就職できたのは男30名、女11名の計41名。半分以上があぶれていた計算になる。記事によれば、男性は珍しく「店員や行員」といった職に就く例が多かった… 続きを読む
d宮古・下閉伊郡 6 9月 1929 「必然的に滅亡する悲惨な山村」とまで酷評された村(S4.9.6岩手日報) 昭和4年(1929年)9月5日、東京帝国大学(現・東京大学)の渡辺助教授が、下閉伊郡小国村での農村調査を終えて盛岡を訪れ、その晩21時28分発の列車で青森へ向かった。その調査結果は、きわめて厳しいものであった。 調査によれば、小国村は原始共産制に近い共同体構造を持っており、さらに「隠し念仏」と呼ばれ… 続きを読む
f花巻・稗貫郡 6 9月 1929 花巻で最初の朝鮮人の小学生(S4.9.6岩手日報) 昭和4年9月、花巻小学校に初めて朝鮮人の児童が入学したことが、当日の岩手日報に報じられている。 記事によれば、この児童は花巻町に居住していた家庭の子で、学齢に達したため正式に小学校へ編入された。学務課の指導により、学校側も円滑な受け入れに努めたという。 当時、地方における朝鮮人児童の就学例は非常に稀… 続きを読む
l全県 6 9月 1929 一面は広告欄(S4.9.6岩手日報) 昭和4年9月6日の『岩手日報』一面を開くと、目に飛び込んでくるのは新聞記事ではなく、所狭しと並ぶ地元企業の広告の数々である。見出しも記事本文もなく、紙面全体が広告に費やされている。 とりわけ目立つのは、「松屋百貨店」の創業二周年記念感謝大売出しの広告だ。丸に「松」の紋を大きく掲げ、扇風機や下駄、時計… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 5 9月 1929 岩手公園の南部中尉の愛馬の銅像が怪我しました(S4.9.5岩手日報) 昭和4年9月、盛岡市の岩手公園でちょっとした“異変”が起きました。園内に建てられていた南部利祥(としなが)中尉とその愛馬の銅像のうち、馬の像の一部に破損が見つかり、足場を組んでの修復作業が行われているのです。 写真に見えるのは、銅像の周囲を囲う足場と、その上で作業を行う職人たちの姿。まるで本当に「怪… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 5 9月 1929 立川飛行場の陸軍機が厨川村の雫石河畔に不時着(S4.9.5岩手日報) 昭和4年9月5日の岩手日報に掲載されたニュースによれば、立川飛行場所属の陸軍機が厨川村の雫石川河畔に不時着するという事故が発生した。 この陸軍機は弘前から立川へ戻る途中だったが、厨川村上空で何らかの事情により飛行を続けることが困難となり、最終的には雫石川の高圧電線に接触。そのまま川の河原に不時着した… 続きを読む
d宮古・下閉伊郡 5 9月 1929 川井と花巻で自動車事故(S4.9.5岩手日報) 昭和4年(1929年)9月3日、小国村で行われた早池峰神社の祭典に関連し、2件の自動車事故が報じられました。 ひとつは、小国村と江繋村の境界付近で発生した事故です。参詣者を満載したトラックに乗っていた34歳の男性が、酒に酔った勢いで走行中に突然車外へ飛び降りました。ちょうど後続していた車の進路に滑り… 続きを読む
g北上・和賀郡 5 9月 1929 苦学の夢に敗れ貨物列車に飛び乗って帰郷(S4.9.5岩手日報) 昭和4年9月4日の明け方、黒沢尻駅(現在の北上市)に到着した盛岡行きの貨物列車に、場違いな姿の若者が一人混じっていました。これに気づいた駅員は不審に思い、青年を派出所に引き渡しました。 調べてみると、この青年は沿岸・田老村(現在の宮古市田老地区)出身の18歳。東京へ出て苦学しようと志して上京したもの… 続きを読む
m県外・参考 5 9月 1929 「一寸法師歌劇団」が来朝(S4.9.5岩手日報) 昭和4年9月3日、ある小さな人々の一行が「来朝」したとの報が、9月5日の『岩手日報』に掲載された。その名も「一寸法師歌劇団」。男女混成の近代的な一座でありながら、身長わずか二尺三寸(約70cm)から二尺九寸(約100cm)という小人症の団員たちで構成された異色の歌劇団である。 団員たちは、いわゆる「… 続きを読む
i一関・西磐井郡 5 9月 1929 一関中学の野外教練で卒倒者続出(S4.9.5岩手日報) 昭和4年9月2日、一関中学校(現・岩手県立一関第一高等学校)では、夏休み明けの始業式が行われた。 しかしこの年、校舎の第1期改築工事は終わっていたものの、内部はまだ未完成で、教室として使用できる状態ではなかった。そのため、やむを得ず毎日2時間にわたる野外教練が行われることになっていた。 始業式では、… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 3 9月 1929 仙北町裏田んぼでイナゴ取り(S4.9.3岩手日報) この日の紙面に掲載されたのは、わずか1枚の写真記事でした。 盛岡市仙北町の裏田んぼにて、数人の女性や子どもたちが、虫取り網や手桶を携え、イナゴを採っている風景が写っています。 記事の見出しは「イナゴはとられる」と簡潔にして印象的。 夏の終わりから初秋にかけて、農村ではイナゴを食料として採集する風習が… 続きを読む
e釜石・遠野・上閉伊郡 3 9月 1929 釜石で横行する船舶部品泥棒(S4.9.3岩手日報) 昭和4年9月3日の『岩手日報』より。 釜石市須賀海岸では、修繕のため陸揚げされていた漁船から、シャフトなどの機械部品が何者かによって盗まれるという事件が発生した。 実は、こうした漁船部品の盗難は、すでに昭和2年頃から相次いで発生していたという。とくに修理のために陸に引き上げてある漁船は、ほとんどが被… 続きを読む
m県外・参考 2 9月 1929 岩手出身の美術教師が帝展で入選(S4.9.2岩手日報) 昭和4年の帝国美術展覧会(帝展)において、東京府立第一高等女学校(現・東京都立白鷗高校)の美術教師・橋本花子さんが、「七面鳥」と題する作品で新入選を果たした。しかも今回は「折紙付きの特選」として、高い評価を受けたことが紙面で紹介されている。 橋本さんは青森市の出身で、女子美術学校(現・女子美術大学)… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 2 9月 1929 横綱・宮城山が郷土で土俵入り(S4.9.2岩手日報) 昭和4年9月、郷土・岩手が生んだ横綱・宮城山が盛岡に凱旋し、大相撲巡業の開催に先立って、盛岡市の大慈寺境内にある原敬の墓所前にて、厳かに四股を踏んだ。 この土俵入りは、郷土出身の横綱による特別な儀式として行われたものであり、政界の巨星であった原敬に対する敬意を込めた所作でもあった。神前にも似た静けさ… 続きを読む
h水沢・江刺・胆沢郡 2 9月 1929 渇水に悩む県南の電力事業者は火力発電所設置計画(S4.9.2岩手日報) 昭和4年9月2日付の岩手日報には、県南地域の電力供給をめぐる深刻な課題が報じられている。 記事によれば、当時の胆江・一関町営・気仙の三つの電力会社が、水力発電の限界に直面し、火力発電所の設置を検討していたという。 当時の地方電力は、ほとんどが河川を利用した水力発電に依存しており、渇水となれば発電能力… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 2 9月 1929 二百十日は無事に過ぎる(S4.9.2岩手日報) 昭和4年9月2日の『岩手日報』によれば、農家にとって最も恐れられる「二百十日(にひゃくとおか)」——台風の来襲が多い厄日——が、今年は大きな被害もなく無事に過ぎたという。 掲載された写真は、盛岡市梨木町の田んぼの様子と思われる。黄金色にたわわに実った稲が、風にそよぎ、秋の穏やかな陽射しのもとに静かに… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 2 9月 1929 今度の盛岡税務署長は「鬼熊事件」で有名な千葉県の佐原出身(S4.9.2岩手日報) 昭和4年9月2日の『岩手日報』には、盛岡税務署に新たに着任した署長についての記事が掲載されている。 この新署長が盛岡駅に到着したのは、9月1日の午前11時36分着の列車。岩手日報の記者に対し、彼はまず丁重にこう述べたという。 「赴任が意外に遅れまして、まことに申し訳ございませんでした」 話を聞けば、… 続きを読む
d宮古・下閉伊郡 1 9月 1929 宮古町で腸チフス流行(S4.9.1岩手日報) 昭和4年9月1日付の岩手日報には、下閉伊郡宮古町における腸チフス流行の模様が伝えられています。 記事によれば、当時の宮古町では腸チフスの患者がすでに10名に達しており、町内の隔離病舎(定員14名)の収容力が限界に近づいていました。通常であれば数名の発症にとどまるところ、今回は綟々(れいれい)と患者が… 続きを読む
l全県 1 9月 1929 震災記念日で二百十日(S4.9.1岩手日報) 昭和4年9月1日付の岩手日報には、「けふは二百十日、そして震災記念日」と題された記事が掲載されている。 9月1日といえば、関東大震災の発生日として広く記憶されている。1923年(大正12年)のこの日、首都圏を中心に未曾有の大地震が襲い、多数の死傷者と甚大な被害をもたらした。この出来事を契機に、9月1… 続きを読む
l全県 1 9月 1929 青訓査閲日程(S4.9.1岩手日報) 昭和4年9月1日付『岩手日報』に掲載された「青訓査閲日割」は、青年訓練所における盛岡工兵連隊の査閲日程を伝えるものである。担当官として第三区が日置中佐、第四六が瀬能大佐と記されており、それぞれ上閉伊郡・気仙郡、胆沢郡・西磐井郡・東磐井郡の青年訓練所を巡る予定が示されている。 青年訓練所(青訓)は、戦… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 1 9月 1929 紫波郡・気仙郡の度量衡取締主任が岩手日報本社見学(S4.9.1岩手日報) 昭和初期のある一日、紫波郡と気仙郡から選抜された度量衡取締主任40名が、盛岡市内にある岩手日報本社を訪問し、施設見学を行った。新聞紙面には、その様子を撮影した写真も掲載されている。 見学の目的は、報道機関の実務や印刷技術、編集体制を知ることにあったと考えられる。写真からは、印刷機が並ぶ工場のような現… 続きを読む