e釜石・遠野・上閉伊郡 3 6月 1964 釜石のメインストリート・浜町はジグザグで危険(昭和39年6月3日) 昭和39年6月3日の岩手東海新聞より。 釜石のメインストリートである浜町は、この当時、戦災復興補助の打ち切りで、メインストリートがジグザグな状態になっており、危険であった。 … 続きを読む
e釜石・遠野・上閉伊郡 8 2月 1964 中国・武漢訪問記(S39.2.8岩手東海新聞) 中国の工業化と社会主義建設の現場では、鉄鋼コンビナートの建設が進められていたが、機械が未設置の工場や動力機械が不足している工場もあり、労働者の不満が高まる状況だった。それでも「自力更生」を掲げ、薄板工場や線材工場、パイプ工場の建設が進められていた。労働者は三交代制で働き、休暇を返上して増産に励み、生… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 8 2月 1964 ‘64川徳オリジナル新入学用品(S39.2.8岩手東海新聞) 昭和39年も新入学商戦に入ろうとしていた。 盛岡の川徳が釜石の岩手東海新聞に広告を出す。… 続きを読む
e釜石・遠野・上閉伊郡 7 2月 1964 釜石駅から「蛍の光」で東海製鉄へ33人が転出(S39.2.7岩手東海新聞) この年の2月1日、釜石から最初の東海製鉄への転出車が送られたが、今度は第2陣の33名が転出。… 続きを読む
e釜石・遠野・上閉伊郡 6 2月 1964 釜石南高校が甲子に新築移転(昭和39年2月6日) 昭和39年2月6日の岩手東海新聞より。 釜石南高校は、創立当初からの校舎を使用していたが、昭和37年に鵜住居に釜石北高校が独立したこともあり、新校舎を建設している最中であった。 そして、2月17日に移転することが決まったという。 … 続きを読む
e釜石・遠野・上閉伊郡 5 2月 1964 釜石の人口が減って8万人台になります!(昭和39年2月5日) 昭和39年2月5日の岩手東海新聞より。 東海製鉄への転出の影響で、釜石市の人口が8万人台に減るという。 それは大ニュースであった。 … 続きを読む
e釜石・遠野・上閉伊郡 4 2月 1964 東海製鉄への転出対策に名古屋から中学教師が来釜(昭和39年2月4日) 昭和39年2月4日の岩手東海新聞より。 釜石は東海製鉄への転出対策に揺れていたが、教育問題もあり、名古屋から教師を呼んで打ち合わせもするようになっていた。… 続きを読む
e釜石・遠野・上閉伊郡 4 2月 1964 釜石の人が中国・広州に行ってきた(昭和39年2月4日) 昭和39年2月4日の岩手東海新聞より。 釜石の人が中国に行ってきたようで、広州に行ってきた印象を語っている。 ちなみに当時は中華人民共和国との国交は無く、国交があった「中国」は中華民国つまり台湾の方。 … 続きを読む
e釜石・遠野・上閉伊郡 3 2月 1964 釜石職安「遠野の皆さん!釜石に来て働いて下さい!」(昭和39年2月3日) 昭和39年2月3日の岩手東海新聞より。 釜石職業安定所では、労働力不足に頭を悩ませていた。 そこで、農村地帯である遠野の労働力に釜石に来てもらおう、というキャンペーンを張ることになった。 … 続きを読む
e釜石・遠野・上閉伊郡 3 2月 1964 釜石の衣料品店は一斉休業日を設けます!(昭和39年2月3日) 昭和39年2月3日の岩手東海新聞より。 釜石市内の衣料品店で結成される「釜石線維同友会」では、一斉休業日を設けるようにした。 2月は第2・第4火曜日に休むという。 … 続きを読む
e釜石・遠野・上閉伊郡 3 2月 1964 吉里吉里中学校に特別教室完成(昭和39年2月3日) 昭和39年2月3日の岩手東海新聞より。 大槌町の吉里吉里中学校に特別教室棟が完成したという。 また、非常階段も設置されたという。 … 続きを読む
e釜石・遠野・上閉伊郡 1 2月 1964 日本計算機は35,000円(S39.2.1岩手東海新聞) 広告欄より。 機械式の「日本計算機」は35,000円であったという。 この時期の大卒初任給は2万円だった。… 続きを読む
e釜石・遠野・上閉伊郡 1 2月 1964 東海製鉄の社長が釜石を訪問(昭和39年2月1日) 昭和39年2月1日の岩手東海新聞より。 愛知県の東海製鉄では、その操業開始に当たって釜石製鉄所の労働者も7〜800人欲していた。 そこで、社長自らが釜石まで来たのである。 希望者は1000人程度いたが、800人弱まで絞ったのだという。 … 続きを読む
e釜石・遠野・上閉伊郡 1 2月 1964 釜石で「ビル」といえば浜町の市営ビルだった(昭和39年2月1日) 昭和39年2月1日の岩手東海新聞より。 釜石市内の肉屋が広告を売っている。 その名も「ビルの工藤」。 まるで釜石市内にはビルは釜石市営ビルしかないかのように。 … 続きを読む
e釜石・遠野・上閉伊郡 1 2月 1964 赤羽根スキー場でスキー場開き(昭和39年2月1日) 昭和39年2月1日の岩手東海新聞より。 遠野市と釜石市の間にある赤羽根スキー場でスキー場開きを行ったという。 釜石でスキー場といえば赤羽根スキー場で、昭和の終わりごろになると、笛吹峠の近くに「青ノ木スキー場」がオープンする。 … 続きを読む
e釜石・遠野・上閉伊郡 15 1月 1964 釜石で電話を付けるためには7倍の競争率(昭和39年1月15日) 昭和39年1月15日の岩手東海新聞より。 釜石電報電話局管内の加入電話の希望者は7倍の倍率となっていたと言う。 まだ自動化する前の話。… 続きを読む
e釜石・遠野・上閉伊郡 15 1月 1964 釜鉄小川体育館で成人式(昭和39年1月15日) 昭和39年1月15日の岩手東海新聞より。 釜石市の成人式は、釜石製鉄所小川体育館で行われた。 女性の出席者は、訪問着姿が多かったようだ。 … 続きを読む
e釜石・遠野・上閉伊郡 15 1月 1964 大槌小学校では廃品回収で修学旅行資金を稼ぐ(昭和39年1月15日) 昭和39年1月15日の岩手東海新聞より。 大槌小学校では廃品回収で修学旅行を稼ぎ、1人の欠席者も出さないと意気込んでいた。 … 続きを読む
e釜石・遠野・上閉伊郡 14 1月 1964 釜石電報電話局は昭和40年度内の自動化を目指す(昭和39年1月14日) 昭和39年1月14日の岩手東海新聞より。 釜石電報電話局は、この時点ではまだ自動電話ではなく、交換手が交換する方式であったが、昭和40年度までに自動化する計画であった。 … 続きを読む
e釜石・遠野・上閉伊郡 13 1月 1964 そのうち花巻空港も開港するから釜石に行く県道も舗装して(昭和39年1月13日) 昭和39年1月14日の岩手東海新聞より。 4月の花巻空港の階高を控え、花巻と釜石を結ぶ主要県道も舗装してほしいと議員に要請した。 当時は、舗装した道自体が珍しかったのだ。 … 続きを読む
e釜石・遠野・上閉伊郡 11 1月 1964 釜石郵便局では正月返上で郵便の滞貨を解消へ(昭和39年1月11日) 昭和39年1月11日の岩手東海新聞より。 釜石郵便局では、全逓のストで遅れた年賀状配達を、正月返上で郵便の滞貨解消のために作業をしていた。 … 続きを読む
e釜石・遠野・上閉伊郡 4 1月 1964 釜石の刺傷ざたが市民の献血で救われる(昭和39年1月4日) 昭和39年1月6日の岩手東海新聞より。 港町・釜石は常に流れ者が絶えず、喧嘩も勃発していたが、ついにナイフでの刺傷沙汰になってしまった。 刺された方は、県立釜石病院に運ばれたが、生命危篤となっていた。 このような時、献血を呼びかけ、この時はギリギリのところで助かったのだと言う。 このこ… 続きを読む
e釜石・遠野・上閉伊郡 1 1月 1964 釜石・第一劇場で「花の講道館」「新・忍びの者」を上映(S39.1.1岩手東海新聞) 釜石・第一劇場で「花の講道館」「新・忍びの者」を上映する。 「花の講道館」は昭和38年11月11日初公開の大映作品で、出演は本郷功次郎・高田美和・高千穂ひづる等。 「新・忍びの者」は昭和38年12月28日初公開の大映作品で、出演は市川雷蔵・若尾文子など。 … 続きを読む
e釜石・遠野・上閉伊郡 1 1月 1964 釜石にも近代校舎を!(S39.1.1岩手東海新聞) 昭和39年を迎え、釜石の教育界も夢を語っている。 特に、老朽化した校舎の新築が急がれていた。 … 続きを読む
hスポーツ 9 12月 1963 一関市民の反対の中、青葉町に市民プール着工を強行(S38.12.9岩手報知) 磐井川に面した一関市青葉町に市民プールを着工すると言うので、市民も市議会の文教委員会も大反対。 しかし着工してしまったという。… 続きを読む
i一関・西磐井郡 2 12月 1963 一関は短大にも逃げられそうなのに国立高専なんて(S38.12.2岩手報知) この時期、一関は国立高専誘致問題で揺れていた。 と言うのは、一関にある修紅短大が水沢に移転しようとしていたのだ。それも、一関市は何ら補助をしないということで。 コラムにも「一関一高や二高だけでなく、私立の一関商工(現:一関学院)や修紅も高校なんだ」と書かれている始末。… 続きを読む
i一関・西磐井郡 15 11月 1963 一関商工会議所の議員選挙は6名辞退して無競争に(昭和38年11月15日) 昭和38年11月15日の岩手報知より。 一関商工会議所の議員選挙は、6名が辞退して無競争となった。 この6名の辞退まで、どんなことがあったか容易に想像できるあたりが、いかにも日本の田舎の社会である。 … 続きを読む
i一関・西磐井郡 15 11月 1963 選挙に出ると自己負担が大変(昭和38年11月15日) 昭和38年11月15日の岩手報知より。 一関市議会議員の選挙を変えようとしていても、気になる公的な補助は大した額ではなく、多くの候補が500,000円から700,000円の持ち出しが噂されていた。 貧乏では、選挙にも出られないわけである。 … 続きを読む
i一関・西磐井郡 15 11月 1963 選挙続きで一関の料飲店は閑古鳥(昭和38年11月15日) 昭和38年11月15日の岩手報知より。 一関市内では、選挙が続いており、忘年会シーズンであるにもかかわらず、予約はほとんど皆無に等しいと言う状況であった。 多くの選挙違反は、飲食店の中で行われると言うことで、痛くもない腹を探られるたいと言うことだったのだろう。 … 続きを読む