e釜石・遠野・上閉伊郡 4月 2日 1968 7月1日から「郵便番号」というものが始まりますよ! 昭和43年4月2日の岩手東海新聞より。 郵政省では7月1日から「郵便番号制」を実施するに際し、釜石郵便局ではその説明会を始めた。 郵便番号というものは、郵便物の区分処理を機械化するために始めるもので、欧米ではすでに始めているという。 この制度の制定に至った経緯や、郵便番号制を分かりやすく解説した映画… 続きを読む
e釜石・遠野・上閉伊郡 3月 1日 1967 釜石郵便局に賊(昭和42年3月1日) 昭和42年3月1日の岩手東海新聞より。 釜石郵便局に賊が押し入り、郵便書留20万円分を盗んで行ったという。 … 続きを読む
d宮古・下閉伊郡 10月 28日 1966 宮古電報電話局は4階建ての高層ビルになる予定(昭和41年10月28日) 昭和41年11月1日の岩手東海新聞より。 昭和44年度に完成を目指す宮古電報電話局の自動改式局増設工事の地鎮祭と起工式は、10月28日11時から宮古市築地通りの建設現場で行われた。 起工式には、東北電気通信局長や宮古電報電話局長や、関係者来賓80名が出席して行われた。 宮古管内でも、電話架設の要望は… 続きを読む
l全県 4月 2日 1965 全逓が超勤拒否で郵便物に影響か(S40.4.2岩手日報) この頃の全逓は「戦う労組」だった。 この時も超勤拒否闘争で給与体系の不均衡を改正させようとしていた。 … 続きを読む
e釜石・遠野・上閉伊郡 1月 11日 1964 釜石郵便局では正月返上で郵便の滞貨を解消へ(昭和39年1月11日) 昭和39年1月11日の岩手東海新聞より。 釜石郵便局では、全逓のストで遅れた年賀状配達を、正月返上で郵便の滞貨解消のために作業をしていた。 … 続きを読む
h水沢・江刺・胆沢郡 4月 6日 1962 水沢・岩谷堂の電話局に自動電話新架設900台(昭和37年4月6日) 昭和37年4月6日の胆江日日新聞より。 電電公社岩手電気通信部では、水沢電報電話局と岩谷堂電報電話局の新庁舎完成に伴う自動電話取り付け加入数を検討中であった。 そのうち、水沢は789、岩谷堂は155の計944に決まった。 この時点で、水沢市内の加入数は1357、岩谷堂516で、これに新規申し込みを加… 続きを読む
h水沢・江刺・胆沢郡 11月 21日 1961 全逓の超勤拒否闘争で郵便物の遅滞が予想されます(昭和36年11月21日) 昭和36年11月21日の胆江日日新聞より。 水沢郵便局は「11月末に全逓の超勤拒否闘争で郵便物の滞貨が予想されるので、年賀状などはお早めに」とお知らせを出した。 … 続きを読む
c久慈・九戸郡 1月 1日 1958 久慈郵便局では学生アルバイトが年賀状配達(昭和33年1月1日) 昭和33年1月4日のデーリー東北より。 久慈郵便局では、元日の年賀状配達のアルバイト21名が集合して、局長に激励され市街地各地で配達をスタートした。 高校生18名、大学生3名であったという。 … 続きを読む
c久慈・九戸郡 10月 12日 1957 久慈で郵便友の会の結成式に東北郵政局長まで臨席(昭和32年10月12日) 昭和32年10月11日のデーリー東北より。 久慈で初めての「郵便友の会」が、久慈高校・久慈中学校・長内中学校を中心に結成されることになり、10月12日13時から久慈中学校で結成式が開催され、東北郵政局長までが臨席するという。 その席上、久慈海岸や小袖海岸などの観光地宣伝もするのだという。 中学生や高… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 4月 23日 1957 昭和32年の盛岡郵便局の一日局長は地裁所長 昭和32年4月24日の読売新聞岩手版より。 昭和32年4月24日読売新聞岩手版より。 「郵便週間」(4月20~28日)にちなみ、盛岡郵便局では市内の名士を「一日局長」に。 この年は盛岡地方裁判所長。 局長の手ほどきを受けながら慣れない手つきでスタンプを押していた。 また、新しく完成したばかりの郵便局… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 4月 28日 1954 盛岡郵便局で岩大学長が一日局長となり、ガチで仕事する羽目に 郵政週間の行事の一つとして、盛岡郵便局では県内の名士に一日局長をお願いしているが、今回は鈴木重雄岩手大学学長。 昭和29年4月29日読売新聞岩手版より。 鈴木学長は盛岡高等農林学校の校長であったものが学制改革でそのまま初代岩手大学学長となったものである。 午前10時に出勤し、局内の課長や組合幹部と話… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 4月 16日 1954 盛岡には電話も電報も少なくて困ってます(昭和29年4月16日) 昭和29年4月16日の岩手日報より。 「主婦の苦情袋」というシリーズものの記事より。 この回は社会福祉事務局長の奥さん。 公衆電話と電報の取扱所を増やしてもらえないか。電報は郵便局で取り扱わなくなったので不便で困っている。 この間電話を使おうと思って近所の家に行ったが留守、川徳の簡易電話所は夜6時過… 続きを読む
h水沢・江刺・胆沢郡 8月 26日 1953 電話交換嬢競技の水沢地区予選(昭和28年8月26日) 昭和28年9月1日の胆江日日新聞より。 全国電信電話協議会水沢地区予選は8月26日から3日間の日程で、水沢電報電話局で開催された。 以下のような競技種目があったという。 電話ブラッキング 交換用語 交換証作成 電信和文タイプライター通信 タイプライター二人組合せ 高速度タイプライター 和文タイプ二人… 続きを読む
e釜石・遠野・上閉伊郡 9月 4日 1952 モダーンな遠野郵便局が落成 昭和27年9月4日の岩手日報より。 遠野郵便局庁舎は13日に落成式を上げ、15日から執務を開始する予定であるという。 記事原文ママで書くと「遠野町にはないきれいな建物」であり、ストーブなどの過熱により一定以上の温度に達すると電気仕掛けで自動的にベルが鳴る仕組みであるという。 … 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 8月 3日 1951 盛岡の河南にも電報が打てる郵便局を(S26.8.3夕刊いわて) この当時、盛岡で電報が打てるのは中央通にある盛岡電報電話局の他、駅前・本町・上田・仙北町と、仙北町以外は河北で、肴町・八幡町といった河南は電報の打てる所が無い状態だった。 仙北町駅前にしたって、明治橋を渡っていかないといけないわけで、そういう意味では狭義の「河南」には皆無という状態だった。 それで新… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 12月 4日 1950 早くも年賀状や門松と正月ムード(昭和25年12月4日) 昭和25年12月4日の岩手新報より。 盛岡市内では早くも年賀状やら門松やらの正月ムードに入っていた。 … 続きを読む
m県外・参考 3月 1日 1949 国立仙台電波高等学校が開校します!(昭和24年3月1日) 昭和24年3月1日の岩手新報より。 仙台の無線電信講習所が改組し、国立仙台電波高等学校になるという。 それで生徒を募集している。 … 続きを読む
l全県 1月 20日 1942 郵便局で「感謝貯蓄」スタンプ(昭和17年1月20日) 昭和17年1月20日の岩手日報より。 新聞記事によれば「打倒英米を目指し大東亜に雄渾なる聖戦の展開するにつれ各方面に於ける軍の赫々たる捷報は、いま国民を感謝と感激の渦に浸らせている」のだそうで、郵便局では「感謝貯蓄」運動を展開していた。 それで全国の郵便局は、「感謝貯蓄」スタンプを通帳に推すことにし… 続きを読む
m県外・参考 1月 16日 1940 米内邸では祝電の山で3分の1は女性から(昭和15年1月16日) 昭和15年1月17日の岩手日報より。 米内新総理が1月16日に宮中で開かれた親任式に臨んでいる時、渋谷竹下町の自宅では全国からの祝電の整理に追われていた。 その数は三百通余り。そのうち3分の1までが女性からであったと言い、「私は米内さんが組閣の大命を拝したとラジオで聞いたときどんなに嬉しかったでしょ… 続きを読む
h水沢・江刺・胆沢郡 4月 20日 1938 江刺郡広瀬村「仙台逓信局さん!せめて役場と郵便局だけでも電話を!」 昭和13年4月20日の岩手日報より。 江刺郡広瀬村では、バス路線からも遠ざけられ、電話も無いという状態だった。 それで、役場では昭和13年度の予算で村役場と郵便局に電話機を付けることにした。 そして村長は前日19日に仙台逓信局を訪れ「回線を引いてほしい」と請願したのであった。 … 続きを読む
b二戸・二戸郡 12月 13日 1937 ズーズー弁の軍事電報「メイヨノセンシヨウシ」 昭和12年12月13日の東京朝日新聞より。 支那事変で日本軍が南京などで戦闘していた頃のこと。 二戸郡浄法寺村から出征したある一等兵の留守宅に電報が来た。 「メイヨノセンシヨウシ」 つまりこれは「名誉の戦傷死」ということだ。 家族は写真を仏壇に飾って拝んだ。 ところがそれは「名誉の戦傷す」だったのだ… 続きを読む
l全県 2月 8日 1935 凶作だった東北6県でなぜか郵便貯金の総額が増加 昭和10年2月8日の読売新聞より。 前年は東北6県は凶作であった。 しかし、仙台貯金支局で発表したところによると、昭和10年1月末現在の貯金額は160,837,346円(+2,154,451円)、人員は2,948,913人(+17,500人)であったという。 もともと東北地方の貯金は貧弱であったとこ… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 1月 9日 1927 盛岡~宮古は冬でも自動車で郵便を運びますよ!(昭和2年1月9日) 昭和2年1月9日の岩手日報より。 大正14年以来、盛岡~宮古間の郵便輸送は盛宮自動車によって輸送されるようになった。 しかし冬は積雪の為に運転中止され、郵便物は駄馬によりトコトコ運ばれていたという。 しかし、この冬は万難を排して冬でも自動車で輸送すると逓信局と交渉中である、ということだった。 &nb… 続きを読む