備考※1 7月 1日 1986 【参考】ベトちゃんドクちゃん 中日ニュースで昭和61年7月1日公開とのこと。 「ベトちゃんドクちゃん」話題になりましたね。 たしかベトちゃんは亡くなり、ドクちゃんは成人して結婚したはず。 https://www.youtube.com/watch?v=byycyn-1IYU… 続きを読む
備考※1 4月 6日 1973 【参考】障害者同士の合同結婚式(S48.4.6中日ニュース) 三笠宮殿下も列席して、障害者同士の合同結婚式が行われたという。 https://youtu.be/n2K00je4kaE?si=Xx0dsdKA4QdFVHN5… 続きを読む
備考※1 3月 10日 1972 【参考】水俣病の胎児性患者(S47.3.10中日ニュース) 昭和30年に水俣病を発病しながら昭和47年にやっと認定されるというニュース。 https://youtu.be/V4LM0uhq21U… 続きを読む
g北上・和賀郡 5月 4日 1967 北上で聾啞の男が老婆を絞殺(昭和42年5月4日) 昭和42年5月4日の早朝、北上市内の山林で老婆の絞殺死体が発見された。 老婆は前日3日の朝、山菜取りに出かけたが、夜になっても帰宅しなかったので家人が自家所有の山林を探し回っていたら、杉林の中で死体となっていたのである。 北上署は、近隣の不良を中心に怨恨と痴情の線で捜査を展開することとした。 また、… 続きを読む
e釜石・遠野・上閉伊郡 5月 5日 1966 こどもの日に釜石ライオンズクラブが孤児院や肢体不自由児を丸光デパートに招待(昭和41年5月5日) 昭和41年5月5日の岩手東海新聞より。 釜石ライオンズクラブは。こどもの日を記念して市内の児童養護施設や肢体不自由児学級の子供たちを丸光でパートに集めて遊ばせた。 … 続きを読む
備考※1 3月 17日 1963 【参考】サリドマイド薬害 昭和38年3月17日の中日ニュースより。 岩手県にも患者はいたのだろうか。 https://youtu.be/XAvVlVZH1EU… 続きを読む
備考※1 6月 30日 1961 【参考】ポリオ禍 中日ニュースにて昭和36年6月30日公開。 岩手でも昭和35年頃ポリオは問題になりました。 https://www.youtube.com/watch?v=AK74Y4cj9b4 … 続きを読む
e釜石・遠野・上閉伊郡 9月 22日 1960 ポリオ禍は釜石にも(S35.9.22岩手東海新聞) 昭和35年は全国的にポリオで子供たちが苦しんだ年であった。 釜石でもその惨状を報じている。 … 続きを読む
l全県 5月 20日 1958 にたもの親子「メクラでツンボ」(昭和33年5月20日) 昭和33年5月20日の岩手日報より。 連載されている漫画「にたもの親子」では選挙について扱っている。 5月22日には第28回衆議院議員総選挙が予定されていた時期であった。 乞食のようなボロボロの男も投票所へ行く。 そして問わず語りにいわく「あたしが投票した人は正直でウソを言わぬ人」。 ・・・と思った… 続きを読む
h水沢・江刺・胆沢郡 4月 2日 1957 「八甲田山死の行軍」生き残りの水沢の男性が78歳で死去(昭和32年4月2日) 昭和32年4月2日の岩手日報より。 「八甲田山死の行軍」を、両足切断しながら生き残った水沢の男性が、78歳で肺炎で死去したという。… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 5月 1日 1956 盛岡・大沢川原の善隣館に肢体不自由児の保育所(昭和31年5月1日) 昭和31年5月1日の岩手日報より。 岩手県身体不自由児教誨は、国際キリスト教奉仕団の好意で、盛岡市大沢川原にある善隣館の一部を借り受け、肢体不自由児のための保育所を開設するという。 期間は施設の関係で翌年3月までであるという。 岩手県内には5~6000名、盛岡市内には150名の身体障害児がいたのだと… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 4月 24日 1956 八甲田山死の行軍の生き残りの大工が厚生大臣表彰(S31.4.24岩手日報) 明治35年の「八甲田山死の行軍」で吹雪に見舞われながらも、両手の指と両足を失いながらも生き残った大工が厚生大臣表彰されることになったという。… 続きを読む
e釜石・遠野・上閉伊郡 6月 29日 1954 釜石に多い身体障害者(昭和29年6月29日) 昭和29年7月1日の岩手日報より。 6月29日、盛岡日赤病院の眼科医長・耳鼻科医長・整形外科医長が身体障害者巡回検診班を組織して釜石市を訪れ、市民に対し検診を行った。 この中で多かったのは、昭和20年の釜石艦砲射撃で手足を失った人が多かったこと。 そして、遺伝性の疾患である網膜色素変性症による視覚障… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 6月 16日 1951 知的障害のある浮浪者が精神病院に入っただけでニュースになった時代(昭和26年6月16日) 昭和26年6月16日の「夕刊いわて」より。 見出しには「海デ象をヲトッテイタヨ 脳足りんの坊や青年精神病院入り」と書いてある。 どういうことかというと、この年の初めに浮浪者とおぼしき青年が盛岡駅前の派出所でお世話になっていた。 凍傷しているので、岩手医大に収容して手当をしていたが、名前を聞いてもまる… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 7月 2日 1942 岩手県公会堂で前線を偲ぶ演芸会(S17.7.2新岩手日報) 岩手県公会堂で、白衣の勇士を招き「前線を偲ぶ演芸会」が開催された。 白衣の勇士とは傷痍軍人のこと。 このような福祉事業は、皇后陛下の御心のもとに行われるということになっていた。 … 続きを読む
i一関・西磐井郡 11月 3日 1941 一関町の巴軽楽団は鳴子温泉の陸軍療養所に傷痍軍人を慰問(昭和16年11月3日) 昭和16年11月2日の岩手日報より。 一関町の巴軽楽団は11月3日の明治節の良き日に宮城県の鳴子温泉の陸軍病院療養所で傷痍軍人の慰問を行うことになったという。 … 続きを読む
h水沢・江刺・胆沢郡 11月 3日 1941 胆沢郡南都田村から東京陸軍病院に鬼剣舞で傷痍軍人の慰問団(昭和16年11月3日) 昭和16年11月2日の岩手日報より。 胆沢郡南都田村の有志は11月3~4日に東京陸軍第一・第二病院に鬼剣舞で傷痍軍人の慰問を行うという。 そして靖国神社と明治神宮で奉納園芸を行う予定であるという。 … 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 6月 9日 1937 貧しい傷痍軍人に対し授産の養鶏講習 昭和12年6月9日の岩手日報より。 支那事変で戦争が発生すれば傷痍軍人が発生する。 傷痍軍人を一生職もなく遊ばせておくほどの国力は日本にはなかった。 だから何かをして働いてもらわないといけない。 それで、盛岡連隊区司令部職業補導部では、名誉の戦傷を受け貧困に陥っている家庭の為に、6月15日~21日に… 続きを読む
m県外・参考 9月 3日 1929 「一寸法師歌劇団」が来朝(昭和4年9月3日) 昭和4年9月5日の岩手日報より。 身長わずか2尺3寸(約70cm)〜2尺9寸(約100cm)と言うモダーンな歌劇団の男女一行が9月3日に来朝したと言う。 この時代らしく「モボ」「モガ」揃いだと記事には書いてある。 団長は55歳で、その他は20代であったと言う。 どこの国から来たと言う事は書いていない… 続きを読む