d宮古・下閉伊郡 1 9月 1929 宮古町で腸チフス流行(S4.9.1岩手日報) 昭和4年9月1日付の岩手日報には、下閉伊郡宮古町における腸チフス流行の模様が伝えられています。 記事によれば、当時の宮古町では腸チフスの患者がすでに10名に達しており、町内の隔離病舎(定員14名)の収容力が限界に近づいていました。通常であれば数名の発症にとどまるところ、今回は綟々(れいれい)と患者が… 続きを読む
d宮古・下閉伊郡 28 8月 1929 宮古随一の豪邸「対鏡閣」が身売り(S4.9.1岩手日報) 昭和4年(1929年)9月1日の岩手日報に、宮古町の名邸「対鏡閣(たいきょうかく)」が身売りされるという報が掲載されました。 この「対鏡閣」は、山田線の建設や宮古港の整備などに尽力した下閉伊郡屈指の富豪・菊池長右衛門氏の別邸として知られています。特に注目すべきは、この邸宅が「平民宰相」こと原敬首相を… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 26 9月 1928 山田線の上米内〜区界が開通(S3.9.26岩手日報) 【鉄道史の1ページ】昭和3年、山田線が「北上山地」を越えた日。岩手日報から読み解く開通の熱狂 こんにちは。今回は、地域の歴史を物語る大変貴重な史料をご紹介します。 今から約100年前、昭和3年(1928年)9月26日付の「岩手日報」です。 Screenshot 一面に躍るのは、「上米内―区界間 鉄道… 続きを読む
d宮古・下閉伊郡 1 9月 1928 山田線の宮古〜山田の駅をどこに置くかの会議(S3.9.1岩手日報) 昭和3年9月1日の岩手日報より。 当時の山田線は、盛岡から上米内までしか開通していなかった。しかし、その路線名が示すように、いずれは山田町、さらには釜石方面まで延伸する構想が存在していた。 この時点では、上米内からさらに区界までは開通が予定されており、区界から宮古の間には7つの停車場(駅)が設置され… 続きを読む
d宮古・下閉伊郡 8 4月 1928 全校児童の3分の1を落第させる小学校 昭和3年4月8日の東京朝日新聞より。 川井村小学校では全校210人の3分の1の70名を成績が悪いといって落第させたら父兄が怒って盛岡の県庁まで押しかけたのだという。 しかし学校側は「成績が悪いんだから仕方がない」の一点張り。 ・・・ところで、山田線はこの時点では上米内までしか開業してい… 続きを読む
d宮古・下閉伊郡 8 10月 1927 サンマの季節の貨物列車 微妙に岩手のニュースではないニュース。 昭和2年10月8日の読売新聞より。 茨城県大洗のさんま偵察船「茨城丸」は、岩手県の宮古沖にサンマの大群を発見し、それを無線で大洗の漁民に伝えた結果、大洗の漁民は近年に無い大漁を記録することに。 そうなると、大消費地である東京に運ぶ計画を立てなければならないとい… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 9 1月 1927 盛岡~宮古は冬でも自動車で郵便を運びますよ!(S2.1.9岩手日報) 昭和2年1月、岩手日報は「盛岡~宮古間の冬季郵便逓送を自動車で継続すべく、逓信局と交渉中である」と報じた。実はこの区間、すでに大正14年からは「盛宮自動車」による郵便輸送が始まっていたが、冬場は例年通り積雪のため運休し、郵便物は駄馬によって雪道を越えて運ばれていたという。 この「雪道」とは、すなわち… 続きを読む