l全県 1 3月 1930 少年航空兵に県内でも相応な数が応募(昭和5年3月1日) 昭和5年3月1日の岩手日報より。 この年から、海軍では少年航空兵を募集することになった。 横須賀鎮守府管内では40名の枠であったが、岩手県内だけでも相当の数の志願者があることを報じている。 … 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 1 3月 1930 盛岡に「航空少年団」(昭和5年3月1日) 昭和5年3月1日の岩手日報より。 昭和初期、盛岡には伊東左内という飛行家がおり、当時の陸軍の根拠地である観武ヶ原(現在の盛岡市みたけ一帯)に「伊東飛行場」という飛行場を個人で持っていたという。 (詳細は以下のブログにも詳しい) この伊東氏が、市内中心部の仁王・内丸・日影門・本町の10~18歳の少年1… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 5 9月 1929 立川飛行場の陸軍機が厨川村の雫石河畔に不時着(S4.9.5岩手日報) 立川飛行場所属の陸軍機が、弘前から帰る途中に厨川村の高圧電線に触れて雫石川の河原に不時着と。 この当時の厨川村で、雫石川の河川敷ということは、現在のイオン盛岡のあたりだろうか。… 続きを読む
g北上・和賀郡 4 9月 1929 苦学の夢に敗れ貨物列車に飛び乗って帰郷(昭和4年9月4日) 昭和4年9月5日の岩手日報より。 9月4日の明け方、黒沢尻駅に到着した盛岡行きの貨物列車の連結に、17歳から18歳の青年がいたので、黒沢尻駅員がそれを派出所に連れて行った。 そこで調べたところでは、沿岸は田老村の出身の18歳の青年であったと言う。 苦学するために上京したものの、理想と現実とはあまりに… 続きを読む
d宮古・下閉伊郡 3 9月 1929 川井村でトラックから酔っ払いが飛び降りて圧死(昭和4年9月3日) 昭和4年9月5日の岩手日報より。 9月3日のこと。小国村の早池峰神社の祭典の参詣者を満載したトラックが、江繋村との村境付近で、乗っていた34歳の酔っ払いが飛び降りた。 そうしたところ、次の車に滑り込む形になってしまい、ついには死亡してしまった。 … 続きを読む
e釜石・遠野・上閉伊郡 3 9月 1929 釜石で横行する船舶部品泥棒(昭和4年9月3日) 昭和4年9月3日の岩手日報より。 改修のため須賀海岸に引き上げてあった漁船が、シャフト等の機械が何者かに窃取されていた。 実は、この手の漁船の部品の盗難は昭和2年ごろから頻繁に行われていたようで、このように引き上げてある漁船はほとんどがその盗難にかかっていたと言う程であった。 ひどいものになると、鋭… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 5 9月 1928 すべての自動車に赤と青の信号を(昭和3年9月5日) 昭和3年9月5日の岩手日報より。 この時期、自動車はどんどん増えていったようだ。 この頃は、交差点等で曲がるときは運転手が助手が手で合図をするーーーつまり、今で言う自転車の手信号のように動作していたようである。 しかし、明るいうちであればそれで良いとしても、夜になると全く見えなくなるわけで、この年は… 続きを読む
d宮古・下閉伊郡 29 8月 1928 山田線の宮古〜山田の駅をどこに置くかの会議(昭和3年8月29日) 昭和3年9月1日の岩手日報より。 当時、山田線は盛岡から上米内しか開通していなかった。 しかし、「山田線」と言う路線名にある通り、いずれは山田町を通って、釜石まで開業する予定ではあった。 この時点では、区界までは開通が予定されており、区界から宮古の間は、7カ所の駅が開設される予定であった。 では、宮… 続きを読む
d宮古・下閉伊郡 8 4月 1928 全校児童の3分の1を落第させる小学校 昭和3年4月8日の東京朝日新聞より。 川井村小学校では全校210人の3分の1の70名を成績が悪いといって落第させたら父兄が怒って盛岡の県庁まで押しかけたのだという。 しかし学校側は「成績が悪いんだから仕方がない」の一点張り。 ・・・ところで、山田線はこの時点では上米内までしか開業してい… 続きを読む
d宮古・下閉伊郡 8 10月 1927 サンマの季節の貨物列車 微妙に岩手のニュースではないニュース。 昭和2年10月8日の読売新聞より。 茨城県大洗のさんま偵察船「茨城丸」は、岩手県の宮古沖にサンマの大群を発見し、それを無線で大洗の漁民に伝えた結果、大洗の漁民は近年に無い大漁を記録することに。 そうなると、大消費地である東京に運ぶ計画を立てなければならないとい… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 9 1月 1927 盛岡~宮古は冬でも自動車で郵便を運びますよ!(昭和2年1月9日) 昭和2年1月9日の岩手日報より。 大正14年以来、盛岡~宮古間の郵便輸送は盛宮自動車によって輸送されるようになった。 しかし冬は積雪の為に運転中止され、郵便物は駄馬によりトコトコ運ばれていたという。 しかし、この冬は万難を排して冬でも自動車で輸送すると逓信局と交渉中である、ということだった。 &nb… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 7 1月 1927 入営兵の見送りで賑わう盛岡駅(昭和2年1月7日) 昭和2年1月8日の岩手日報より。 おそらくは弘前の歩兵連隊であろうか。 入営兵を見送る客で盛岡駅は賑わっていた。 … 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 7 1月 1927 盛岡駅の入営兵見送りを1人あたり20人までに制限(昭和2年1月7日) 昭和2年1月7日の岩手日報より。 例年、徴兵で入営する際にはお見送りの人で盛岡駅のホームがごった返していたようで危険極まりない状態だったようである。 それで、盛岡駅では入営者が最も多いことが予想される8日の9:23と11:42発の急行列車は、入営者1名につき20名までしか入場券を売らないことにしたと… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 6 1月 1927 貨車の連結手は危険な仕事だった(昭和2年1月6日) 昭和2年1月8日の岩手日報より。 盛岡駅北側の貨物列車入換線で、貨車連結中の19歳の連結手は10両編成の貨車に飛び乗ろうとしたら、「寒気の為に」靴を滑らせて線路上に転倒し、悪いことにその貨車に引かれて両肩と顔面に重傷を負い人事不省で岩手病院に収容されたのだという。 このように、貨車の連結は特に危険な… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 28 12月 1926 小運送合同政策に基づき北福岡~水沢間の小運送業者を合併します(昭和元年12月28日) 大正の末頃「小運送業者の合併問題」というのがあった。 これは、駅に到着した貨物を、目的地まで自動車・馬車で運ぶ際の賃料が高いという不満が荷主や鉄道省からあったものを受けたものである。 結局、大正15年6月にそうした小運送業者は合併してしまおう、ということになったのである。 それで昭和に元号が変わった… 続きを読む