l全県 12 1月 1950 ラジオ番組案内(S25.1.12岩手新報) 昭和25年1月12日の岩手新報のラヂオ欄には、当時の岩手における唯一の放送局、NHK盛岡放送局(JOQG)が伝えたかった当時の世相が凝縮されています。午前7時15分のルポルタージュ文化財を訪ねてから始まる一日は、午前9時15分のビタミンの取り方や、午後6時30分の発疹チフスの予防といった、戦後の衛生… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 12 1月 1950 川徳で隠退蔵物資の大売り出し(S25.1.12新岩手日報) 昭和25年1月12日付の新岩手日報には、戦後日本の混乱と庶民のたくましさを象徴するような、驚くべき光景が記録されています。その記事が伝えているのは、隠退蔵物資と呼ばれた旧日本軍などの横領物資が摘発され、市民に安く放出された際の異様なまでの熱狂です。隠退蔵物資は、本来ならば終戦直後に国民へ分配されるべ… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 12 1月 1950 盛岡電話局は機械も古く交換嬢も不足(S25.1.12岩手新報) 昭和25年1月12日の岩手新報が伝える盛岡電話局の実態は、戦後の復興期がいかに壮絶なマンパワーによって支えられていたかを物語っています。当時の新聞が傷だらけの電話局という刺激的な言葉を見出しに選んだ背景には、設備と人員の両面で限界を超えていた過酷な現場環境がありました。 当時の盛岡における通信の要で… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 18 5月 1949 岩手「ヤミの女」事情(S24.5.18新岩手日報) 昭和24年5月18日付の新岩手日報は、戦後復興の只中にあった岩手の社会情勢を鮮烈に伝えています。当時の盛岡警察署、現在の盛岡東署が実施した風紀取締週間の記録によれば、夜の街に立つ女性は盛岡で約200名、釜石で40名、宮古で20名から30名に及んでいたといいます。この記事で最も目を引くのは、彼女たちの… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 10 5月 1949 ドッジ・ラインで岩手にも工場倒産の嵐(S24.5.10新岩手日報) 昭和24年(1949年)、戦後日本の経済を立て直すために実施されたドッジ・ラインが岩手県内の地場産業にどのような影響を与えたのか、当時の新岩手日報の記述から辿ります。 まず、この記事の背景にあるドッジラインについて解説します。これは連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の経済顧問ジョゼフ・ドッジが打ち… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 9 5月 1949 盛岡でお釈迦様の生誕を祝う花まつり(S24.5.9新岩手日報) 昭和二十四年五月八日、盛岡では一月遅れのお釈迦さまの誕生を祝う「花まつり」が開かれた。 Screenshot 主催は盛岡市仏教会で、市内の寺院が協力して行われる年中行事として戦後も受け継がれていた。この日の岩手県公会堂には、なんと一〇〇〇名ものお稚児さんが集まったという。白い装束に花冠をつけた子ども… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 8 5月 1949 半陰陽の女子医大生が盛岡に来て誘拐騒ぎ(S24.5.8新岩手日報) 昭和二十四年五月八日の新岩手日報には、少し不穏な記事が載っていた。当時、全国では「半陰陽(インターセックス)」と呼ばれた女子医大生が、女子医専の学生を誘拐するという事件が話題になっていたらしい。戦後間もない混乱期ということもあって、性に関する理解が浅い時代であり、センセーショナルな扱われ方をしていた… 続きを読む
l全県 6 5月 1949 石鹸は登録しないと買えなかった(S24.5.6新岩手日報) 昭和24年5月の新岩手日報に掲載されたこの告知は、現代の私たちには想像もつかない「石鹸が貴重品だった時代」の記憶を鮮明に伝えています。当時、石鹸は今のようにドラッグストアで自由に買える日用品ではなく、政府の管理下で一人ひとりに割り当てられる配給品でした。 その最大の理由は、石鹸の主原料である牛脂やヤ… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 1 3月 1949 県議会で国分知事の冒頭演説(S24.3.1岩手新報) 【プレイバック岩手】昭和24年、国分知事が断行した「51億予算」——前年比3倍超、水害復旧に懸けた執念 皆さん、こんにちは。今日は戦後岩手の復興史を物語る、衝撃的な数字が並んだ新聞紙面をご紹介します。 今から70年以上前、昭和24年(1949年)3月1日付の『岩手新報』。そこには、相次ぐ大規模水害に… 続きを読む
l全県 23 11月 1948 岩手県公会堂で県下農民大会(S23.12.11岩手夕刊新聞) 昭和23年12月11日の岩手夕刊は、戦後の農地改革によって自らの土地を手にした農民たちの歓喜と、新しい時代の責任を静かに伝えています。この記事が発行された当時の日本は、まさに「農民解放」という歴史的な転換点にありました。 Screenshot 同年11月23日、東京では工業倶楽部で農民解放記念祭が開… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 6 10月 1947 岩手県公会堂で大防犯展覧会(S22.10.6新岩手日報) 昭和22年10月6日の新岩手日報に掲載されたこの広告は、現代の私たちの常識を根底から揺さぶるような、凄まじい熱量と禍々しさを放っています。戦後わずか2年、社会全体が飢えと混乱の中にあった時代に、岩手県警察部や新岩手日報社が総力を挙げて開催した「防犯大展覧会」の告知です。 まず目を引くのは、そのあまり… 続きを読む
f花巻・稗貫郡 8 8月 1947 天皇陛下は花巻温泉療養所を行幸(S22.8.8新岩手日報) 【岩手戦後史】昭和22年8月8日、昭和天皇が国立花巻温泉療養所へ ~新岩手日報の紙面から読み解く、復興への希望と慈愛の記録~ Screenshot 昭和22年(1947年)8月、戦後の混乱と窮乏の中にあった岩手県に、昭和天皇をお迎えする「戦後巡幸」が行われました。 当時の『新岩手日報』第2面が伝える… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 8 8月 1947 天皇陛下が岩手に行幸(S22.8.8新岩手日報) 【歴史の1ページ】昭和22年8月7日、岩手に「希望」がやってきた日 戦後、焦土と化した日本。食糧難とインフレに苦しむ人々が、復興に向けて必死に前を向こうとしていた昭和22年(1947年)。 Screenshot 今回ご紹介するのは、当時の「新岩手日報(昭和22年8月8日付)」です。そこには、前日に岩… 続きを読む
l全県 7 4月 1947 初めての民選知事に国分謙吉が当選(S22.4.7新岩手日報) 【歴史の1ページ】1947年4月7日:岩手初、伝説の「農民知事」国分謙吉誕生! 終戦からわずか2年。それまでの中央政府から派遣される「官選知事」ではなく、県民が自らの手でリーダーを選ぶ、初めての岩手県知事選挙が行われました。 Screenshot 手元にあるのは、1947年(昭和22年)4月7日付の… 続きを読む
l全県 24 7月 1946 県を挙げての米の供出作戦(S21.7.24新岩手日報) 昭和21年7月24日の新岩手日報によれば、その前日にあたる7月23日、地方事務所長会議を終えた春彦一知事は、各事務所長を再度集めて米の供出状況に関する訓示を行いました。 この席で知事は、県全体の目標として3万石を掲げ、これを達成するために農民組合や警防署員を動員して各農家へ供出をお願いして回るよう指… 続きを読む
m県外・参考 18 3月 1946 岩手でも報じられた片岡仁左衛門一家鏖殺事件(S21.3.18新岩手日報) 【昭和の衝撃事件】新岩手日報が伝えた「片岡仁左衛門一家殺害事件」 昭和21年(1946年)3月18日付の紙面より Screenshot 戦後間もない混乱期、日本中を震撼させた衝撃的なニュースがありました。歌舞伎界の名門、十二代目 片岡仁左衛門とその一家5名が殺害された事件です。 今回、当時の「新岩手… 続きを読む
l全県 17 3月 1946 憲法草案を批判してください(S21.3.17新岩手日報) 【歴史の深掘り】昭和21年3月17日「憲法草案を批判せよ」という政府の布告 古い新聞を整理していたら、驚くべき資料が見つかりました。昭和21年(1946年)3月17日付の「新岩手日報」の一面です。 Screenshot そこには、現代の感覚では少し意外に思える、刺激的な見出しが躍っていました。 「憲… 続きを読む
l全県 16 3月 1946 列車の旅は「馬小屋以下」(S21.3.16新岩手日報) 【タイムトラベル】昭和21年3月の岩手へ。窓のない列車と「馬小屋以下」の暮らし 先日、激動の時代を物語る貴重な資料を目にする機会がありました。昭和21年(1946年)3月16日付の『新岩手日報』です。終戦からわずか半年、岩手の地で人々がどのような現実に直面していたのか。そこには、現代の私たちには想像… 続きを読む
m県外・参考 3 1月 1946 天皇の「人間宣言」報道(S21.1.3新岩手日報) 【歴史的資料】昭和21年元旦、岩手の地で報じられた「人間宣言」 今回、非常に貴重な資料を入手しました。昭和21年(1946年)1月1日付の『新岩手日報』です。 Screenshot この日の紙面を飾っているのは、昭和天皇がいわゆる「人間宣言」を行われた際の詔書(しょうしょ)に関するニュース。終戦から… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 31 10月 1945 盛岡市本宮で早場米(S20.10.30新岩手日報) 【時をかける盛岡】イオンモール盛岡南の場所は、かつて「希望の米」を運ぶ拠点だった 皆さんは、盛岡市本宮にある「イオンモール盛岡南」によく行かれますか? 今や盛南開発の中心地として、ショッピングや映画で賑わうこの場所。しかし、今から約80年前のこの地には、今とは全く違う、しかし同じくらい切実な「活気」… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 31 10月 1945 盛岡中劇・第一劇場で「そよかぜ」公開(S20.10.31新岩手日報) 昭和20年10月31日、盛岡の空に吹いた「そよかぜ」 〜焼け跡に響いた「リンゴの唄」と映画館の紅白模様〜 終戦からわずか2ヶ月半。まだ街に空襲の傷跡が生々しく残る中、人々は何を心の支えにしていたのでしょうか。 Screenshot 手元にある昭和20年10月31日の「新岩手日報」(現在の岩手日報)の… 続きを読む
e釜石・遠野・上閉伊郡 10 8月 1945 扶桑第六〇一工場(場所不明)「お願いだから戻ってきて!逃げ出したことはもう何も言わないから!」(S20.8.10新岩手日報) この資料は、1945年(昭和20年)8月9日に岩手県釜石市へ敢行された2度目の艦砲射撃の直後、釜石製鉄所の「扶桑第601工場」が従業員に向けて出した非常に切迫した内容の広告です。ご質問にある「逃げ出す人が多かったのか」という点については、この文面そのものが、当時の職場放棄や避難による労働力喪失の深刻… 続きを読む
l全県 21 4月 1945 本土決戦訓と新聞非常措置(S20.4.10新岩手日報) 昭和20年4月21日「新岩手日報」が語る、極限状態の岩手 終戦まであと4ヶ月と迫った昭和20年(1945年)4月21日。手元にある当時の「新岩手日報」を開くと、そこには岩手が置かれていた凄まじい緊迫感が刻まれています。 Screenshot 3月10日の東京大空襲、そして同日に起きた盛岡空襲の記憶も… 続きを読む
h水沢・江刺・胆沢郡 1 4月 1944 後藤新平や斎藤実の銅像も「出征」(S19.4.1新岩手日報) 【歴史の断片】偉人たちの「出征」― 昭和19年、水沢に響いた撤収式の鐘 昭和19年(1944年)4月1日。現代の私たちにとってはエイプリルフールとして馴染み深い日付ですが、今から80年以上前のこの日、岩手県水沢(現・奥州市)の新聞には、町の誇りを揺るがすような記事が掲載されていました。 Screen… 続きを読む
d宮古・下閉伊郡 14 7月 1943 有芸村から決死の木炭輸送(S18.7.14新岩手日報) 【歴史の断片】昭和18年、命懸けの「木炭輸送」—岩泉・旧有芸村の絶壁をゆく— 戦後80年が経過しようとする今、当時の地方紙を紐解くと、教科書には載っていない庶民の壮絶な「戦い」が見えてきます。 Screenshot 今回ご紹介するのは、昭和18年(1943年)7月14日付の「新岩手日報」。そこには、… 続きを読む
m県外・参考 13 7月 1943 新岩手日報の特派員が北満守護の兵士に聞く(S18.7.13新岩手日報) 【戦時中の記憶】極寒の北満州から届いた「郷土への渇望」―昭和18年の新聞記事より 今回ご紹介するのは、昭和18年(1943年)7月13日付の『新岩手日報』です。 戦局が厳しさを増す中、郷土・岩手の記者が遠く離れた「北満州(現在の中国東北部)」へ渡り、最前線で任務に就く兵士たちの生の声を取材した貴重な… 続きを読む
l全県 1 7月 1943 防空知識必携(S18.7.1新岩手日報) 【昭和の記録】1943年7月1日、岩手の空を守る「防空必携」の教え 戦時中の人々がどのような「空襲対策」を教えられていたか、皆さんはご存知でしょうか? Screenshot 今回ご紹介するのは、今から80年以上前、昭和18年(1943年)7月1日付の『新岩手日報』に掲載された「防空必携 改訂版」とい… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 1 7月 1943 英国から鹵獲したローバーを盛岡工業学校に(S18.7.1新岩手日報) 昭和18年の衝撃:盛岡工業に届いた英国製「ローバー」と知られざる戦時下の技術教育 昭和18年(1943年)7月1日付の『新岩手日報』。そこに、当時の地方教育界としては極めて異例、かつ衝撃的なニュースが掲載されていました。 Screenshot 見出しには「英国製の戦利自動車 盛工学徒実習に操る」の文… 続きを読む
l全県 4 4月 1943 電話供出に赤誠(S18.4.4新岩手日報) 昭和18年3月28日に軍需都市である釜石市の電話網を、受話器を上げるだけで即座に繋がる最新の共電式へと切り替える一方で、仙台逓信局では同時期に一般向けの電話供出運動を強力に展開していました。 Screenshot 同年4月4日付の新岩手日報によれば、電力戦下の重要生産拡充という烈烈な要望に即して、こ… 続きを読む
e釜石・遠野・上閉伊郡 1 4月 1943 釜石の電話が共電式に(S18.4.1新岩手日報) 昭和18年4月1日付の新岩手日報によれば、岩手県内で2番目に市制を施行し重工業都市として発展を続けていた釜石市において、通信網の劇的な刷新が行われました。 Screenshot 当時は逓信省の管轄下で郵便と電話が一体となって運営されており、電話交換業務の拠点であった釜石郵便局には、仙台逓信局から石田… 続きを読む