扶桑第六〇一工場(場所不明)「お願いだから戻ってきて!逃げ出したことはもう何も言わないから!」(S20.8.10新岩手日報)
この資料は、1945年(昭和20年)8月9日に岩手県釜石市へ敢行された2度目の艦砲射撃の直後、釜石製鉄所の「扶桑第601工場」が従業員に向けて出した非常に切迫した内容の広告です。ご質問にある「逃げ出す人が多かったのか」という点については、この文面そのものが、当時の職場放棄や避難による労働力喪失の深刻さを雄弁に物語っています。
まず、冒頭で離職者に対して工場復旧と生産への復帰を強く呼びかけている点は、裏を返せば、砲撃の恐怖によって職場を離れ、戻ってこない工員が続出していた事実を示しています。特に、一切の行きがかりを捨てて戦時要員としての義務を果たせと説得している部分は、個人の恐怖心や混乱を不問にするからとにかく戻ってほしいという、なりふり構わない現場の困窮が透けて見えます。
逃げ出した理由については、ご指摘の通り艦砲射撃による圧倒的な破壊と死への恐怖が最大要因です。釜石は同年7月14日と8月9日の2度にわたり、米英艦隊から巨大な主砲による直接射撃を受け、市街地も工場も地獄絵図と化しました。空襲とは比較にならないほどの至近距離からの砲撃にさらされ、建物が粉砕される光景を目の当たりにすれば、命を守るために山林へ逃げ込んだり、縁故を頼って疎開を図ったりするのは生存本能として当然の行動でした。
こうした職場放棄や無断離脱を厳しく禁じていた法的な根拠は、国家総動員法に基づく国民徴用令にあります。1939年(昭和14年)に制定されたこの法令により、政府は国民を強制的に重要産業へ動員する権限を有しており、徴用された者が正当な理由なく職務を放棄したり職場を離脱したりした場合には、1年以下の懲役または1000円以下の罰金という刑事罰が科されることになっていました。
さらに1944年(昭和19年)施行の軍需会社法下では、指定された工場の従業員は軍隊に近い厳格な規律を求められ、業務の拒否や放棄は重大な利敵行為と見なされるほどの重罪でした。加えて勤労管理令によって、労働者が勝手に退職することも、事業主が勝手に解雇することも制限されていました。無断離脱は法律違反として警察の取り締まり対象となり、本人だけでなく家族や隣組までもが連帯責任を問われる社会的な圧力も存在していました。
広告の中で、どうしても職場を離れる場合は警察署長や勤労動員署長に申告して許可を受けよと記されているのは、これら厳格な法律に基づく手続きを強調することで、無断離脱が犯罪であることを突きつけていると言えます。また、市町村長や警察官だけでなく、隣組長や知人といった周囲の人間からも職場復帰を勧告するよう協力を求めている点に、コミュニティ全体を使って逃亡者を包囲し、連れ戻そうとした当時の執拗な社会構造が表れています。
この広告が出された日付は、2度目の砲撃当日である昭和20年8月9日です。その翌日の新聞に掲載されたこの言葉は、精神論でしか人を動かせなくなった軍需工場の末期的な状況を象徴しており、明日の国運を決すると謳いながらも、実際には生産現場が物理的にも精神的にも維持困難な限界点に達していたことを証明しています。
戦時下とはいえ、これはどんなブラックな工場・・・?
というか、「扶桑第601工場」ってどこ・・・? 岩手県内?
そう思って探したら、おそらくはオランダの戦時捕虜に関するアーカイブに行き当たった。
「扶桑第六〇一工場」とは釜石にあったらしい。
また、「墜道」で「窒息死」とあるので、トンネルのある職場なのだろう。
そうすると、釜石鉱山の製錬所あたりか・・・?
また、このオランダ兵さんが亡くなられたのは、まさにこの広告が出された昭和20年8月9日なのである。
何とも痛ましい話であることよ。。。
この日は、釜石に2度目の艦砲射撃のあった日であった。
艦砲射撃で工員が「てんでんこ」に逃げていったのではないだろうか。
