a盛岡・岩手郡・紫波郡 1 2月 1950 川徳デパートで「大棚さらひ」(昭和25年2月2日) 昭和25年2月2日の新岩手日報より。 盛岡の川徳デパートでは、2月3〜5日にかけて「大棚さらひ」を行うという。 … 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 1 2月 1950 山のボンペイ街のチャコ「吹雪」(昭和25年2月1日) 昭和25年2月1日の新岩手日報より。 連載されていた「山のボンペイ街のチャコ」では、冬の吹雪について扱っている。 この時期であれば、冬型の気圧配置によるものだろうか。 … 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 31 1月 1950 県内各地で大雨が降り洪水(昭和25年1月31日) 昭和25年2月1日の岩手日報より。 暦の上では、大寒だと言うのに、1月30日から30一日にかけて、徳永の雨が降り、県内の風が増水し、各地の道路が浸水する被害が発生した。 暦の上では、大寒だと言うのに、1月30日から30一日にかけて、徳永の雨が降り、県内の風が増水し、各地の道路が浸水する被害が発生した… 続きを読む
d宮古・下閉伊郡 31 1月 1950 暴風雨で下閉伊郡北部に甚大な被害(昭和25年1月31日) 昭和25年2月3日の新岩手日報より。 1月31日、暴風が吹き荒れて、岩泉町や田野畑村といった下閉伊郡北部で甚大な被害が報告された。 … 続きを読む
l全県 15 1月 1950 アメリカ赤十字青少年部から岩手の子供達にギフトボックス(S25.1.15岩手新報) 昭和25年(1950年)1月15日付の岩手新報に、戦後の空気をよく伝える小さな国際ニュースが載っている。 アメリカの少年少女から贈られた 65個のギフトボックス が、米国赤十字社を通じて日本赤十字社本部に渡り、さらに岩手県支部へと届けられたという記事だ。 Screenshot この贈り物の原資となっ… 続きを読む
e釜石・遠野・上閉伊郡 14 1月 1950 釜石みそ・しょうゆ販売登録店ご挨拶(S25.1.14岩手新報) 昭和25年1月14日付の岩手新報に掲載されたこの広告は、当時の釜石における味噌と醤油の小売店登録に関する挨拶文です。戦後の混乱期を経て、物資の流通を管理していた需給調整規則が改正されたことに伴い、改めて「指定店」として登録を受けた店主たちが連名で広告を出したものです。 文面からは、指定店としての誇り… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 14 1月 1950 入院中の皆さん!GHQのお達しにより必ず病院給食を食べましょう!(S25.1.14岩手新報) 昭和25年1月14日の岩手新報に掲載されたこの公告は、現代の私たちにとっては当たり前の存在である病院給食が、実はGHQ主導による医療改革の大きな転換点であったことを物語っています。 当時の日本では、入院患者の食事は家族が付き添って調理したり外部から持ち込んだりする自炊制度が一般的でした。しかし、この… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 14 1月 1950 盛岡は5年後こうなる(S25.1.14岩手新報) 昭和25年1月14日の岩手新報の紙面を眺めていると、終戦からわずか5年という激動の時代に、当時の盛岡の人々が抱いていた熱い情熱がダイレクトに伝わってきます。 Screenshot 紙面の中央を飾る県都五年後の夢という言葉には、戦後の混乱を乗り越え、新しい都市を自分たちの手で築き上げようとする強い意志… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 14 1月 1950 岩手県公会堂で「空気のなくなる日」上映(S25.1.14岩手新報) 昭和25年1月14日の岩手新報の紙面を眺めていると、当時の盛岡の日常が鮮やかに蘇ってくるような小さな広告に出会いました。それは内丸にある岩手県公会堂で開催された、映画上映のお知らせです。 会場となった公会堂は、現在も県庁の隣にその威容を残す、盛岡の歴史を象徴する建物です。昭和2年の開館以来、地域の文… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 14 1月 1950 富士銀行盛岡支店「強盗に来る?なら死ぬつもりで来いや」(S25.1.14岩手新報) 昭和25年1月14日付の岩手新報を広げると、戦後間もない時代の熱量と殺伐とした空気が混ざり合った、驚くような事件が目に飛び込んできます。 紙面の中心を飾るのは、盛岡市紺屋町にある富士銀行盛岡支店に掛かってきた1本の怪電話です。前日の午前11時頃、若い関東弁の男から今夜6時30分頃に強盗に行くから十分… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 13 1月 1950 繋温泉曙町料亭組合の広告(昭和25年1月13日) 昭和25年1月13日の岩手新報より。 繋温泉曙町料亭組合の広告。 繋温泉にわざわざ「曙町」と入れているということは、他にも町があったのだろうか。 … 続きを読む
l全県 12 1月 1950 ラジオ番組案内(S25.1.12岩手新報) 昭和25年1月12日の岩手新報のラヂオ欄には、当時の岩手における唯一の放送局、NHK盛岡放送局(JOQG)が伝えたかった当時の世相が凝縮されています。午前7時15分のルポルタージュ文化財を訪ねてから始まる一日は、午前9時15分のビタミンの取り方や、午後6時30分の発疹チフスの予防といった、戦後の衛生… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 12 1月 1950 川徳で隠退蔵物資の大売り出し(S25.1.12新岩手日報) 昭和25年1月12日付の新岩手日報には、戦後日本の混乱と庶民のたくましさを象徴するような、驚くべき光景が記録されています。その記事が伝えているのは、隠退蔵物資と呼ばれた旧日本軍などの横領物資が摘発され、市民に安く放出された際の異様なまでの熱狂です。隠退蔵物資は、本来ならば終戦直後に国民へ分配されるべ… 続きを読む
i一関・西磐井郡 12 1月 1950 一関に競輪場?(S25.1.12岩手新報) この時期、一関に競輪場が設置される計画があったようで「5月ごろには完成」などという計画があったようだ。 … 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 12 1月 1950 不良化する盛岡の盛岡の戦後派学生(S25.1.12岩手新報) 盛岡市警察署管内でも、青少年は不良化しているようであった。 ダンスホールで不純異性交遊するなど。 … 続きを読む
j東磐井郡 12 1月 1950 東磐井郡の「糸姫」は業界不況で求人激減(S25.1.12岩手新報) 岩手県内有数の繭所として知られていた東磐井郡は、女性は嫁入り前に他の地方に製糸工場に働きに出るようになっていたようだ。 ところが、この時期は業界不況で、全国からの「糸姫」の求人に少なくなっていたようだ。 … 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 12 1月 1950 盛岡電話局は機械も古く交換嬢も不足(S25.1.12岩手新報) 昭和25年1月12日の岩手新報が伝える盛岡電話局の実態は、戦後の復興期がいかに壮絶なマンパワーによって支えられていたかを物語っています。当時の新聞が傷だらけの電話局という刺激的な言葉を見出しに選んだ背景には、設備と人員の両面で限界を超えていた過酷な現場環境がありました。 当時の盛岡における通信の要で… 続きを読む
b二戸・二戸郡 9 1月 1950 小田野柏選手(福岡中学出身)が新生・毎日オリオンズ入り(昭和25年1月9日) 昭和25年1月9日の新岩手日報より。 プロ野球では、リーグ分裂騒ぎとなっていたが、パシフィックリーグのほうに新たに誕生する。毎日オリオンズに福岡中学出身の小田野柏選手が入団することになった。 この小田野柏、長らく「岩手県出身のプロ野球選手」としてメディアなどに名前の出る存在となり続けるが、プロ野球選… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 7 1月 1950 岩手郡各町村が「A happy new year!」(昭和25年1月7日) 昭和25年1月7日の岩手新報より。 岩手郡各町村が新春広告。 戦後なので取ってつけたような英語。 … 続きを読む
l全県 7 1月 1950 農家の皆さん!シャウプ勧告に基づいて青色申告をしないといけませんよ!(昭和25年1月7日) 昭和25年1月7日の岩手新報より。 シャウプ勧告に基づいて青色申告が始まるという広告。 … 続きを読む
e釜石・遠野・上閉伊郡 4 1月 1950 釜石から北朝鮮への帰国者の記念植樹(S35.1.4岩手東海新聞) 釜石市から、北朝鮮に帰国する帰国者が10名いたのだそうで、それを記念して植樹が行われた。 … 続きを読む
l全県 12 11月 1949 大豆を1俵供出したら「大豆宝くじ」(S24.11.12岩手新報) この時期、米と同様に大豆も「供出」の対象だった。 この供出をスムーズに進めるために「大豆宝くじ」を企画したのだという。 これがどれだけ大豆の供出に役に立ったかは不明。… 続きを読む
b二戸・二戸郡 12 11月 1949 奥中山のさらに奥の開拓部落(S24.11.12岩手新報) 北上川と馬淵川の分水嶺である奥中山の、さらに奥にある開拓部落である下田子部落に入植した開拓民の話。 「日本のチベット」岩手県にはこんな部落がいくらでもあった。… 続きを読む
d宮古・下閉伊郡 11 11月 1949 宮古や釜石で南海ホークス対大陽ロビンスの試合?(S24.11.11岩手新報) 広告には宮古高校のグランドや釜石・昭和園グランドでプロ野球の南海ホークス対太陽ロビンスの試合が行われるとある。 しかし「スタメンアーカイブ」を見る限りでは、そんな形跡は見られないのだ。 … 続きを読む