c久慈・九戸郡 12 1月 1956 種市町八木港に「消えない導灯」を(昭和31年1月12日) 昭和31年1月12日のデーリー東北より。 種市町の八木港では、導灯(航路標識)が消えていたために、前年11月に漁船の遭難事故も発生していた。 そこで、第二管区海上保安本部灯台部では、この導灯を消えないものにする工事をしていた。 また、種市町が昭和29年から陳情運動を行っていた「八木灯台」は予算的に難… 続きを読む
e釜石・遠野・上閉伊郡 8 1月 1956 遠野に平和大観音が建立(昭和31年1月8日) 昭和30年12月27日の岩手日報より。 後年、あんべ光俊の「遠野物語」で〽月夜の晩の福泉寺~と歌われた遠野市の福泉寺では、戦没者供養と戦災復興を祈願して、信者3000人の手により平和大観音像が慈眼寺の山頂に建立されることとなった。 高さは43尺(13メートル)であり、台座も含めると実に54尺(16.… 続きを読む
d宮古・下閉伊郡 8 1月 1956 躍動する宮古港(昭和31年1月8日) 昭和31年1月8日の岩手日報より。 宮古市内を空撮した画像。 この時期、宮古港は3000トン岸壁から延長して10000トン岸壁の建設工事が始まっている時期だった。 また、閉伊川の加工を磯鶏海岸に切り替える計画もあったという。 … 続きを読む
k大船渡・陸前高田・気仙郡 8 1月 1956 大船渡に国立病院誘致計画(昭和31年1月8日) 昭和34年1月8日の河北新報岩手版より。 大船渡市では全国の都市に先駆けて、国保の10割給付を行っていたという。 つまり毎年の国保料を支払っていれば無料で医者にかかれるということ? ・・・それはともかく、そのような状態でもあり大船渡市の財政は危機にさらされていた。 それで大船渡市立の病院が建設できず… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 7 1月 1956 カップルのオートバイの横乗りは取り締まりますよ(昭和31年1月7日) 昭和31年1月7日の岩手日報より。 この頃、オートバイにカップルで乗って、女性の方は横乗りで事故を起こすことが多かったようである。 そこで警察は取り締まりに乗り出すことにした。 警察は「捕まりたくなかったら女性もズボンをお召しになってまたがって乗ってください!」と。 ちなみに、どちらも… 続きを読む
l全県 7 1月 1956 樺太の拓銀に預金のあった人はお申し出ください!(昭和31年1月7日) 昭和31年1月7日の岩手日報より。 終戦して10年以上が経過した。 しかし樺太への預金が残っているなど、いろいろな問題が残っていたようである。 それで、北海道拓殖銀行では「樺太に預金があった人は拓銀の各支店に申し出てください」と広告を出している。 確かに、盛岡市内だと青山町には樺太からの引き上げ者が… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 6 1月 1956 盛岡市内のキャバレー営業時間取り締まり(昭和31年1月6日) 昭和31年1月8日の岩手日報より。 盛岡警察署では、風俗営業法によるキャバレーの飲食時間を内偵していた。 風俗営業法では、キャバレーは11時が営業時間になっていたのである。 そして、1月6日23:30を期して、3班に分かれて盛岡市内の「ハレム」「フロリダ」「レンボー」を急襲して、証拠写真の撮影などを… 続きを読む
c久慈・九戸郡 5 1月 1956 軽米町に観光協会を設立へ(昭和31年1月5日) 昭和31年1月7日のデーリー東北より。 軽米町社会教育委員会の新年初会議が行われ、軽米町に観光協会を設立することを決定した。 そして、主に以下のものを紹介することを決定した。 徳楽寺・袋薬師 八幡宮 大鳥の滝 ヤイホイの巌窟 … 続きを読む
l全県 4 1月 1956 いくら河北新報だからって岩手版にまで仙台市内の官公衙の新春広告を出されても・・・(昭和31年1月4日) 昭和31年1月4日の河北新報岩手版より。 河北新報は仙台の新聞なのはわかる。 しかしこの紙面は岩手版なのだ。 岩手版に仙台市内の官公衙の新春広告ばかり出されても岩手の読者としてはどうだったのだろう? あるいは岩手でも「仙台の風」を感じることができてむしろ好評だったのだろうか?… 続きを読む
c久慈・九戸郡 25 12月 1955 久慈地方「ヒエではなくお米を常食できるように開田工事をしましょう!」(昭和30年12月25日) 昭和30年12月25日の岩手日報より。 九戸地方では、ヒエではなくお米を常食できるよう開田工事を進めているという。 長内土地改良区では、来年の田植え時期を目標に用水路の掘削工事を進めているという。 しかし、岩盤が固いところもあり爆破が主な作業となっているという。 これによって見込まれる米の増産量は6… 続きを読む
g北上・和賀郡 25 12月 1955 東和町役場が落成しました!(昭和30年12月25日) 昭和30年12月25日の岩手日報の広告欄より。 この年の1月1日に和賀郡土沢町・小山田村:谷内村・中内村が合併し東和町が発足したが、この年末の12月25日になり新しい庁舎が落成した。 … 続きを読む
d宮古・下閉伊郡 21 12月 1955 宮古市役所「吏員ども!お前らにボーナス払ったら年越しできなくなるぞ!滞納税金取り立てて来い!」(昭和30年12月21日) 昭和30年12月21日の岩手日報より。 宮古市では市役所吏員に冬のボーナスを支払ったら年末の諸々の支払いができなくなるという。 そこへ来て、過年度分の市税滞納が3700万円、昭和30年度も3200万円がまだ納付されないままだという。 そこで12月16日~27日を「納税強化期間」と位置づけ、全吏員に市… 続きを読む
d宮古・下閉伊郡 20 12月 1955 昭和の大合併で津軽石村を編入した宮古市「私有林の半額払下げなんて引き継いでません」(昭和30年12月20日) 昭和30年12月20日の岩手日報より。 この年の4月1日、宮古市は周辺の花輪村・崎山村・重茂村と共に津軽石村を合併した。 「昭和の大合併」である。 この中で、津軽石村では村有林を営林署払下げ価格の半額で地元部落民に払下げるように村議会で議決していた。 これが昭和30年4月1日の合併で「市有林」となっ… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 29 11月 1955 岩手県選出の社会党議員が中国の戦犯収容所を視察 昭和30年11月29日の岩手日報より。 岩手県出身で日教組の副委員長まで務め、参議院議員となっている小笠原二三男氏は、1か月の日程で陽春・北京・哈爾浜・瀋陽・上海・長春・撫順と中共の教育事情を視察し、28日に急行「十和田」で盛岡に帰り、「中国の教育は素晴らしいの一言に尽きる!」とベタ褒めしていた。 … 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 27 11月 1955 東北地方主要都市の人口(昭和30年11月27日) 昭和30年11月27日の岩手日報より。 国勢調査の結果が出て、東北地方各都市の人口がまとまった。 当時の盛岡は14万人。しかし岩手県の人口は140万人と現在よりむしろ多く、いかに農村部に人口が分散していたかということがわかる。 … 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 18 11月 1955 火災に無防備な老朽県庁 昭和30年11月18日の岩手日報より。 明治36年(1903年)に建てられた県庁 この当時の岩手県庁は、明治36年11月に完成し、築53年であった。 53年もやってればそれは書類だって増える。 つもりに積もった書類に、火災報知機も無く火災のリスクは非常に高い状態となっていた。 そこで、火災シーズンを… 続きを読む
l全県 15 11月 1955 国勢調査の結果、岩手県の人口は1,427,080人です! 昭和30年11月15日の岩手日報より。 5年ごとの国勢調査の結果がまとまり、岩手県の人口が1,427,080人と、前回の国勢調査より8万人の増加があったことが分かった。 この間、「昭和の大合併」もあり、特に釜石市などは2倍に膨れがっていた。 … 続きを読む
f花巻・稗貫郡 11 11月 1955 花巻にモダンな婦人会館 昭和30年11月11日の岩手日報より。 花巻町役場が花巻中学校の跡地に引っ越したので、その跡地に婦人会館を建設した。 建物はモルタル塗りのクリーム色で、窓枠は薄いグリーン、正面は3階が化粧ガラス張りで、内部はフローリングの集会場などがあったという。 … 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 11 11月 1955 県庁の玄関脇に「県民室」開設し好評 昭和30年11月11日の岩手日報より。 4月に岩手県知事が国分知事から阿部知事に変わり、民主的な県政をアピールするべく県庁の玄関脇に「県民室」をもうけ、県民の相談事に乗っている。 主に来る客としては、陳情が多いようで、そのほかにも県職員の採用相談や、農地問題の紛争解決、海外移民の相談、などの相談事が… 続きを読む
h水沢・江刺・胆沢郡 9 11月 1955 見出しもあろうに「あき盲の書類配達」(昭和30年11月9日) 昭和30年11月9日の岩手日報より。 「この道三十年」というシリーズものの記事で、この回では69歳の前沢町役場使丁にスポットを当てているのだが、見出しが「あき盲の書類配達」となっているのである。 ここでいう「あき盲」とは、非識字者であることを指しているようで、書類の配達が主な仕事であるにもかかわらず… 続きを読む
e釜石・遠野・上閉伊郡 7 11月 1955 釜石で「ゴミ人夫33年」厚生省表彰 昭和30年11月7日の岩手日報より。 清掃人夫として33年間釜石市に奉職してきた53歳の男性が、厚生省所管の全国清掃協会に表彰されるという。 この人は釜石市役所衛生課におり、目が悪くて徴兵検査に不合格となり、一念発起して「人が嫌がることをやろう」と、当時請負制であったゴミさらいを始めたのだという。 … 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 7 11月 1955 教育会館の隣に5階建ての文化ビルを建てます!(昭和30年11月7日) 昭和30年11月7日の岩手日報より。 盛岡市では、国鉄盛岡工場二枚橋分工場の払い下げ鉄骨で、上田に東北一の体育館を建築しようと計画していた。(→昭和32年完成の盛岡体育館) このほか、盛岡市内の一等地である教育会館の隣の大通に文化センターを建設しようと計画していた。 構想によれば、四囲を緑地帯に囲ま… 続きを読む
l全県 7 11月 1955 県内の飲食店にも「公給領収証」 昭和30年11月7日の岩手日報より。 11月1日から、遊興飲食税が大幅引き下げになった。 ただし、そのためには1回の支払いが500円以上になった場合に県で作成して領収書を渡さないと行けなくなった。 これが「公給領収証」である。 これは飲み屋だけではなく、芸者、赤線、果ては喫茶店までも同様に適用される… 続きを読む
j東磐井郡 6 11月 1955 「岩手初の女性代議士」は今・・・ 昭和30年11月6日の岩手日報より。 婦人参政権10年を特集する記事の中で、「岩手初の夫人代議士」として、昭和21年の第22回衆議院議員総選挙で岩手県選挙区でトップ当選した菅原エン氏の現在を追っている。 そもそも、菅原氏は渋民村では一番の豪農で、盛岡高等女学校(現在の盛岡二高)から戸板裁縫学校高等師… 続きを読む
m県外・参考 5 11月 1955 社会党でも国会議員なら移動は特急つばめの展望車 昭和30年11月5日の岩手日報より。 この年の10月まで、社会党は右派社会党と左派社会党に分かれていたものが統一したのである。 それで、統一した社会党としての遊説を行うべく鈴木茂三郎委員長や浅沼稲次郎書記長らは特急「つばめ」で大阪を目指したのである。 社会党とはいえ国会議員なら「つばめ」の1等展望車… 続きを読む
k大船渡・陸前高田・気仙郡 3 11月 1955 陸前高田で市制祝賀行列 昭和30年11月3日の岩手日報より。 この年の1月1日に、岩手県内11番目の市として市制した陸前高田市が11月に入り、市制祝賀行列を行うこととなった。 以下の行事が予定されているという。 午前7時 市内消防団が高田高校に集まって演習、その後行進 午前9時 市内小中学校学童、幼稚園児8000名が岩手日… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 18 8月 1955 盛岡に痴漢出没(昭和30年8月18日) 昭和30年8月19日の河北新報岩手版より。 8月16日には盛岡で舟っこ流しが行われ、痴漢が現れたのだという。 それで捜査を行っていた矢先の8月18日、今度は新庄田中(現:若園町)で5歳の幼女が友達と遊んでいると、自転車できた男にいたずらされたのだという。 それで警察は厳重に捜査を進めていた。 &nb… 続きを読む
f花巻・稗貫郡 10 8月 1955 花巻空襲10周年で全市民が黙祷(昭和30年8月10日) 昭和30年8月10日の河北新報岩手版より。 この10年前である昭和20年8月10日、花巻町は空襲被害に遭い、死者45名、焼失家屋673戸で盛岡・釜石に次ぐ被害となった。 この日は正午を期し、全市民が黙祷するという。 写真は花巻のメインストリートである上町通り。 勿論まだ花巻デパートもマ… 続きを読む
c久慈・九戸郡 10 8月 1955 村の財政が貧乏で汚い井戸水しか飲めない中学校(昭和30年8月10日) 昭和30年8月10日の河北新報岩手版より。 九戸郡九戸村では、まだ上水道が整備されておらず、飲用水は井戸水に頼っている状況であった。 伊保内中学校では、村の予算が無く、高台の耕地に建てられた校舎の隅に形ばかりの井戸を設けたのだという。 しかし、水面が地面と同じ高さとなり、雨が降れば下水からあふれた汚… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 7 8月 1955 胆沢地方事務所公金横領問題で辞職した県農政課長は葛巻町長に立候補(昭和30年8月7日) 昭和30年8月7日の河北新報岩手版より。 先に、県庁の希望退職で労組が「希望退職させるならまずは胆沢事務所の公金汚職問題の関係者を辞職させろ」と迫った問題で、直接関係は無かったにしろ当時の所長であった相良政行農政課長は辞表を提出するに至った。 相良課長は、当時の阿部千一知事に身の振り方を相談した。 … 続きを読む