f花巻・稗貫郡 7月 1日 1946 酒1升のために米3升の配給を辞退した人はいる?(S21.7.1新岩手日報) 読者からの投稿欄。 この時代は配給なしには生きられない時代であったが、「酒1勝の配給のためには米3升を辞退しなければいけない」ということになっていたようだが、それを実行した人はいたのだろうか?という花巻の人の問い。 … 続きを読む
d宮古・下閉伊郡 7月 1日 1946 樺太からの脱出者に聞く樺太の現状(昭和21年7月1日) 昭和21年7月1日の岩手日報より。 終戦後10か月余り、ソ連に占領された南樺太で生活を続け、昭和21年に年が明けてから脱出した宮古市内の30歳の男性に、終戦後の樺太の様子を聞くことにした。 終戦時の混乱 国境近くの気屯飛行場で警備にあたっていた。 その後敷香まで土工を率いて敷香に行くことを命ぜられた… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 6月 30日 1946 盛岡市内中等学校籠球リーグ戦(昭和21年6月30日) 昭和21年7月1日の岩手日報より。 市内中等学校籠球リーグ戦は岩手師範女子部コートで開催された。 参加は盛岡中学・岩手中学・盛岡工業・杜陵中学の4校。 結果は盛岡中学が優勝した。 盛中 32-9 杜中 岩中 44-7 盛工 盛中 32-11 岩中 岩中 21-15 杜中 … 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 6月 12日 1946 盛岡にはびこる偽のヤミ米摘発隊(昭和21年6月12日) 昭和21年7月1日の岩手日報より。 開運橋通りのある家に3人の男がやってきて「岩手地方世話部のものだが・・」と言う。 地方世話部というのは県庁に属し、軍人の恩給や復員に関する役所であった。 まだ復員していなかった長男の話でも聞けるのか?と思ったら「ヤミ米に関して調べたいから倉庫を見せてくれ」という。… 続きを読む
f花巻・稗貫郡 8月 17日 1945 高村光太郎「一億の号泣」(昭和20年8月17日) 昭和20年8月17日の岩手日報より。 この当時、高村光太郎は、岩手県花巻町の宮沢賢治の弟の家に疎開をしていた。 そこで終戦を迎えることとなり、新聞に詩を寄せたのである。 … 続きを読む
l全県 8月 17日 1945 さあ、麦の供出だ(昭和20年8月17日) 昭和20年8月17日の岩手日報より。 それまで農家は「教室する麦を空襲で焼いては申し訳ない」と、袋に詰めて山の中に疎開させていた。 しかし、20日の供出期日が切迫していたので、農家は山から下ろしていた。 それまでの供出は、戦争に勝つための供出であったが、戦争が終わってしまったので、勝つための供出では… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 8月 15日 1945 終戦、そのとき岩手では(昭和20年8月15日) 8月15日、日本はポツダム宣言を受諾し終戦を迎える。 その時岩手はどうであったか。 岩手日報からその様子を抜き出してみたい。 盛岡工機部(国鉄盛岡工場)の大詔拝聴 仙台鉄道局盛岡管理部の終戦の勅語拝聴は、15日正午から盛岡駅貨物取扱所で行われた。 岩手日報の書きぶりをそのまま抜き出すと、 この日管内… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 8月 15日 1945 新盆に初穂 声に出して読みたい盛岡弁 終戦の日、つまり昭和20年8月15日の新岩手日報では、盛岡郊外の農家を取材している。 「この初穂、見でくなんせ。お盆に穂が出だら豊作でがす」 終戦の年は暑い夏だったといろいろな所で報告されている。 稲作は豊作の兆しであった。 「わしと同じ様にこの田を耕した祖先や戦死した倅も新盆で家に来てこの出穂をみ… 続きを読む
d宮古・下閉伊郡 8月 14日 1945 「空襲はありましたが従業員全員無事 東亜鉱工○○精錬所」 昭和20年8月14日新岩手日報には、こんな広告が出ている。 「去ル空襲ニ際シ工場被害軽微…」 広告の主は「東亜鉱工 ○○精錬所」 そもそも東亜鉱工ってどこの会社? と思ったらそれは現在のラサ工業らしい。 ラサ工業といえば宮古か。 軍需工場は機密上、どこそこにあるということを新聞などで言うことはできな… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 8月 12日 1945 盛岡・国劇で市川團十郎・市川鶴之助一座が特別興行!(昭和20年8月12日) 昭和20年8月10日の岩手日報より。 盛岡の国劇(のちの国民映画劇場と同じ場所?)で、市川團十郎と市川鶴之助一座の歌舞伎興行を行うという。 あちこちで空襲がある中、一般市民も歌舞伎興行を開催し、それを見に行く余裕があったのかどうかは分からないが、このような記録はあるということで。 &n… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 8月 10日 1945 盛岡駅「乗車券発行制限で定期券の購入が増えたのはいいんですけど…」(昭和20年8月10日) 昭和20年8月10日の新岩手日報より。 盛岡駅の統制官は言う。 「最近、乗車券の発行制限の強化で定期券の購入がやたら増えたのですが、その定期券購入所だって登録した役所とか病院に限ってますが、その申請書を出していないところが、特に盛岡に多いので支給申請してください。 これまでは申請が無くても特別に発行… 続きを読む
e釜石・遠野・上閉伊郡 8月 10日 1945 扶桑第六〇一工場(場所不明)「お願いだから戻ってきて!逃げ出したことはもう何も言わないから!」(昭和20年8月10日) 昭和20年8月10日の新岩手日報の広告欄より。 「扶桑第六〇一工場」というところが従業員に呼びかけている。 どこの工場なのかはこの広告からは読み取れない。 現代語訳するとこんな感じだろうか。 離職したみんな、私たちは工場復旧と生産に奮闘している。 すぐに復帰してほしい。 今日勤務したかしないかは、明… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 8月 10日 1945 今週の映画は「最後の帰郷」(大映)、「愛と誓ひ」(東宝)(昭和20年8月10日) 昭和20年8月10日の岩手日報より。 この時期になると映画配給はどこの映画会社で製作するにかかわらず「紅系」「白系」に分けて行われるようになったようである。 この記事を書いている令和3年年末の時点で、どちらがどっちかは判然としていないが。とにかく2本ずつの映画配給ということには変わりなかったようであ… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 7月 16日 1945 宮城千賀子一座が盛岡・国劇に来ます(昭和20年7月16日) 昭和20年7月12日の岩手日報より。 宮城千賀子の一座が7月16~17日に盛岡の国劇で公演を行うという。 この時期、宮城千賀子は出産して映画から退いていたが、自ら「劇団なでしこ」を旗揚げして各地を巡業していたという。 … 続きを読む
e釜石・遠野・上閉伊郡 7月 12日 1945 上閉伊郡栗橋村では割当量の234%の松根油生産!(昭和20年7月12日) 昭和20年7月12日の岩手日報より。 4~6月の第1期の松根油生産において、県下で最も優秀な成績をあげたのは上閉伊郡栗橋村で、割当量の実に23割4分の生産を達成したという。 これは、責任者が滅敵の闘魂を燃やして2里(8km)の道を、未明から夜の8時まで何があっても帰宅せずに奮闘したからであるという。… 続きを読む
b二戸・二戸郡 7月 12日 1945 二戸郡福岡では松根油生産死守に「七人の侍」(昭和20年7月12日) 昭和20年7月12日の岩手日報より。 石油の採れない日本では、「ガソリンの一滴は血の一滴」で、木炭ガスで自動車を動かし、松根油で飛行機を飛ばそうとしていた。 この状況であるにもかかわらず、二戸郡福岡町の松根油生産状況は芳しくない状況であった。 そこで、福岡町農業会長は二戸国民動員署にこの実情を訴え、… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 7月 12日 1945 地下壕で執務する盛岡管理部(昭和20年7月12日) 昭和20年7月12日の岩手日報より。 「警報下の地下壕で執務する盛岡管理部」とだけキャプションがあるが、どこの会社やら省庁やら判然としないが、「盛岡管理部」という呼称を明確に使用していたのは仙台鉄道局ではないだろうか。 … 続きを読む
l全県 7月 10日 1945 仙台鉄道局では7月11日~9月10日を「極限的輸送力増強期間」とする(昭和20年7月10日) 昭和20年7月10日の岩手日報より。 仙台鉄道局では、戦時体制の維持の為に、7月11日~9月10日を「極限的輸送力増強期間」と定めることにした。 これは、軍需省(昭和18年に商工省から改組)の定める重要資源と、食糧以外の輸送を極力抑制し、それ以外の貨物の受付を場合によっては拒絶するというもの。 また… 続きを読む
d宮古・下閉伊郡 7月 10日 1945 代用食、代用醤油のレシピ(昭和20年7月10日) 昭和20年7月10日の岩手日報より。 前年の11月に東京から疎開してきた書道家は毛筆をあっさり捨てて、宮古翼壮松根油工場で働いているという。 その奥さんは、日々の食事のことを常に考えていた。 この際、嗜好本位を捨てて栄養本位で考えないといけない。 道端の草には食べられない草より食べられる草の方が多い… 続きを読む
i一関・西磐井郡 7月 8日 1945 西磐井郡の学童の山菜採取成績(昭和20年7月8日) 昭和20年7月10日の岩手日報より。 西磐井郡の各国民学校の山菜採取状況は以下の通りであったという。 一関国民学校 303貫 油島国民学校 411貫 花泉国民学校 181貫 金沢国民学校 805貫 老松国民学校 175貫 弥栄国民学校 291貫 萩荘国民学校 201貫 厳美国民学校 1011貫 山目… 続きを読む
h水沢・江刺・胆沢郡 7月 6日 1945 水沢では灯火管制の反則36件(昭和20年7月6日) 昭和20年7月10日の岩手日報より。 水沢警察署では、水沢町内の灯火管制の状況を点検したら、36件の反則があった。 電球に直接覆いを掛けているもの 片側だけ遮光しているもの 全く遮蔽をせずに雨戸だけ閉めているもの このために電球40個を押収した。 反則者は疎開者が多かったという。 言い訳としては「資… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 7月 2日 1945 夏至も過ぎ、田植えはほぼ終了(昭和20年7月2日) 昭和20年7月2日。 夏至も過ぎ、田植えもほとんど終了してお百姓さんありがとうという写真記事が掲載されている。… 続きを読む
e釜石・遠野・上閉伊郡 7月 2日 1945 昆布増産の最前線は学童たち(昭和20年7月2日) 昭和20年7月2日の岩手日報より。 当時、大槌湾は「養殖昆布の先進地」であると認識されていたようである。 その大槌湾では子供たちが小舟が沈みかけるほど大量に昆布を収穫していたという。 大槌漁協割り当ては5,957貫であったが、6月30日の時点でそれを達成し、これまで使わなかった穴布(あなめ)まで採取… 続きを読む
l全県 7月 2日 1945 「お願い!内地の人!朝鮮で警察官になって!」(昭和20年7月2日) 昭和20年7月2日の岩手日報の広告欄より。 「朝鮮総督府警察官大増員」という広告がある。 応募資格は「徴兵ヲ終ヘタル満十九歳以上四十歳ノ内地人」。 内地人限定であった。 岩手県下での採用試験は、岩手県警察官練習所と、花巻警察署の2か所であった。 … 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 7月 2日 1945 宝くじのルーツは戦時中の「勝札」(昭和20年7月2日) 昭和20年7月2日の岩手日報より。 盛岡煙草販売組合では、「7月攻勢」の目標に、①アルミ貨回収、②勝札売り捌き を決定した。 ①アルミ貨回収というのは、当時の10銭以下の小銭がアルミニウムでできていたところ、戦闘機の製造にアルミニウムが不足していたので貨幣は錫で製造することとし、アルミニウムの小銭は… 続きを読む
l全県 7月 2日 1945 県「木炭増産の為に窯を増設しましょう!清酒や衣料品の配給を増やしますよ!」(昭和20年7月2日) 昭和20年7月2日の岩手日報より。 木炭の需要はいやがうえにも高まっていた。 家庭用に使うだけではなく、自動車を動かす、製鉄用の燃料といった用途でも使うようになっていた。 昭和20年度の生産目標は1114万俵となっていた。 そこで、7~8月を「緊急築窯期間」と定め、増産を図ることとした。 窯の増設に… 続きを読む
e釜石・遠野・上閉伊郡 6月 29日 1945 釜石憲兵分隊「灯火管制を守らなかったり、裏山に逃げ回ったり、何たる不心得!」(昭和20年6月29日) 昭和20年7月2日の岩手日報より。 6月29日夜、釜石に敵機の偵察があったのだという。 ところが、その時に灯火管制を守らず注意された家は20戸、始末書を取られたのが16戸あったという。 中には「暑い」と言って雨戸を開放して消灯しており、いざという時に思わず点灯してしまうという家もあったという。 そう… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 3月 10日 1945 盛岡空襲 昭和20年3月10日、東京大空襲と同じ日に盛岡でも空襲があった。 翌3月11日の岩手日報では、裏面のトップでそれほど大きい扱いではないが、「本県に醜翼をあらわし盲爆を落とし、あわてふためきながら海上に脱去した」と、あくまで敵を醜悪に表現することにこれ努めたている。 「それでも市民は戦った」と、被害状… 続きを読む
e釜石・遠野・上閉伊郡 1月 1日 1945 釜石鉱山では鶴嘴片手に無休の正月 〽️海の男の艦隊勤務 月月火水木金金 休みなく働くことを称揚した軍歌「月月火水木金金」は、本来は戦争の激化により休みがなくなっていく海軍の状況を自嘲的に「これじゃ月月火水木金金だよ」と誰かがこぼしたのを真に受けて作詞されたものであると言われている。 昭和20年の釜石鉱山の正月は、その「月月火水木金金… 続きを読む
l全県 1月 1日 1945 警視庁「お願いだから東京で巡査に応募して!産業戦士やめてでも来て!」 昭和20年元旦の岩手日報より。 東京の警視庁が新聞広告で大々的に巡査を募集している。 この増産報国のご時世に、「産業戦士モ奮テ応募セヨ」となりふり構わず応募かけている。 … 続きを読む