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一関で暴力団員がお手柄!?(昭和38年9月13日) i一関・西磐井郡

一関で暴力団員がお手柄!?(昭和38年9月13日)

昭和38年9月14日の岩手報知より。 9月13日の夜8時ごろ、一関市内大町銀座のマーケット内で、昔の雇い主の飲食店主が小切手の横領犯人をばったり見つけたのだと言う。 捕まえようとしたが逃げられたので、周囲にも協力を頼んで捕まえることにした。 果たして、一関小学校の校庭でその男を捕まえたのは、松葉会の…
一関に「1日自治省」を(昭和38年9月10日) i一関・西磐井郡

一関に「1日自治省」を(昭和38年9月10日)

昭和38年9月10日の岩手報知より。 この時、代議士である志賀健次郎が一関に帰省していた。 これを機に、一関志賀会では、一関に「1日自治省」の開設を計画していた。 これは、一関に早川自治大臣を招いて「1日自治省」を開き、ものによっては早川自治大臣の決裁をその場でとって、即決の行政を成功させようと言う…
急行列車の愛称名が簡素化されます(昭和38年9月9日) i一関・西磐井郡

急行列車の愛称名が簡素化されます(昭和38年9月9日)

昭和38年9月9日の岩手報知より。 国鉄一関管理所は、東北支社で急行の愛称に使われている名前を10月から簡素化するという。 急行は「第一」「第二」、準急は「1号」「2号」で区別するという。 上野行 常磐線経由:十和田 東北本線経由:おいらせ、八甲田 奥羽本線経由:つがる 盛岡行 いわて 宮古行 陸中…
代議士は挨拶が大切(昭和38年9月9日) i一関・西磐井郡

代議士は挨拶が大切(昭和38年9月9日)

昭和38年9月9日の岩手報知より。 広告欄には、地元選出の代議士・志賀健次郎が挨拶広告を出している。 第2次池田内閣では防衛庁長官を務めていた。 7月18日、池田内閣の内閣改造で防衛庁長官を退任し、その挨拶として9月から10月まで、一関市内にいることにしたのだという。  …
一関市内の銭湯が入浴料を18円→24円に値上げさせてほしいと要望(昭和38年9月4日) i一関・西磐井郡

一関市内の銭湯が入浴料を18円→24円に値上げさせてほしいと要望(昭和38年9月4日)

昭和38年9月4日の岩手報知より。 一関市内の銭湯は、燃料費や人件費の高騰から入浴料を大人18円から24円に値上げさせてほしいと一関市に要望した。 それまでは、大人18円、中人14円、小人7円、洗髪10円であったが、経営が成り立たないので大人24円程度に値上げしてほしいというものであった。 値上げ問…
平泉町長島のリンゴは東京でも好評(昭和38年9月4日) i一関・西磐井郡

平泉町長島のリンゴは東京でも好評(昭和38年9月4日)

昭和38年9月4日の岩手報知より。 平泉町長島のリンゴ生産は、ここ数年で急激に成果をあげたのだと言う。 高級品種の「スターキング」「デリシャス」などは東京の中央市場でも好評を博しているのだと言う。 また、薬剤散布機の共同購入や、自動選果機による大量生産も功を奏しているのだと言う。   &n…
1962年をリードするプリンス自動車は岩手プリンスで! a盛岡・岩手郡・紫波郡

1962年をリードするプリンス自動車は岩手プリンスで!

昭和37年元旦の岩手日報の広告欄より。 「スカイライン」などで知られるプリンス自動車が大胆にも一面広告である。 この時点で、盛岡だけではなく一関、大船渡、釜石、宮古、福岡(二戸)、久慈に販売店があったようである。 そして盛岡ではほかのメーカーのように菜園や大沢川原といった下ノ橋の北側ではなく南仙北で…
弾丸道路の停車場候補に一関の厳美地区(昭和35年7月17日) i一関・西磐井郡

弾丸道路の停車場候補に一関の厳美地区(昭和35年7月17日)

昭和35年7月17日の岩手報知より。 この当時、高速道路は「弾丸道路」と言われていたようで、インターチェンジも「停車場」と呼ばれていた。 その「停車場」の候補に、一関市厳美地区が候補に上がり、建設省の課長が視察に来たのだという。 ちなみに、東北自動車道の盛岡〜一関で部分開業するのは昭和52年のこと。…
一関から南米に移民する3家族の送別会(昭和35年7月9日) i一関・西磐井郡

一関から南米に移民する3家族の送別会(昭和35年7月9日)

昭和35年7月9日の岩手報知より。 一関市大平開拓地から、南米パラグアイに行く3世帯17名の送別会が中里農協会議室で開かれた。 送別会には一関市長、一関市農林課長、市内各農業組合長、開拓連盟支部長など60人が集まった。 移民団の代表からは「このような盛大な送別会を開いていただいて感謝にたえません。パ…
一関一高の放火事件で夜警団が増えた結果…(昭和35年7月5日) i一関・西磐井郡

一関一高の放火事件で夜警団が増えた結果…(昭和35年7月5日)

昭和35年7月5日の岩手報知より。 この年の6月末、一関一高が放火で焼失した。 この時点では、犯人はまだ上がっていなかったので、一関市内の各町内会では夜警団を結成して警戒して歩くことになったのである。 そうすると、各町内の夜警団が、ヤアヤアと声を交わしている風景が頻繁となったのである。 そのたびに犬…