a盛岡・岩手郡・紫波郡 20 4月 1938 厚生省「戦時でもあるし性病予防対策に診療所を!」→盛岡市では…(昭和13年4月20日) 昭和13年4月20日の岩手日報より。 厚生省は、岩手県を通じて「戦時疾病に備え花柳病予防の診療所を設置するように」と、盛岡市に要請してきたのだという。 これに対し、盛岡市では内丸の診療所を拡張設備することで対応することにしたようである。 そこで、診療所の裏手の県経済部長官舎を明け渡してほしいと県に交… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 7 3月 1938 盛岡~日詰のバスを木炭自動車に改造 昭和13年3月7日の岩手日報より。 日中戦争も泥沼化の様相を呈し「ガソリンの一滴は血の一滴」の時代になっていた。 それで東京市のバスの半分はすでに木炭バスに改造され、盛岡~日詰のバスを経営する盛岡市内丸の佐藤自動車店でも、1台を木炭自動車に改造する計画であるという。 また、繋温泉に行くバスも木炭車に… 続きを読む
l全県 5 3月 1938 「国策に順応して誕生した日本の自動車ニッサン」! 昭和13年3月5日の岩手日報の広告欄より。 「国産に順応して誕生した日本の自動車ニッサン」と大々的に広告を打っている。 この時は日中戦争期、「国策に順応している」ことが充分に惹句になりうる時代に突入していた。 … 続きを読む
b二戸・二戸郡 13 12月 1937 ズーズー弁の軍事電報「メイヨノセンシヨウシ」 昭和12年12月13日の東京朝日新聞より。 支那事変で日本軍が南京などで戦闘していた頃のこと。 二戸郡浄法寺村から出征したある一等兵の留守宅に電報が来た。 「メイヨノセンシヨウシ」 つまりこれは「名誉の戦傷死」ということだ。 家族は写真を仏壇に飾って拝んだ。 ところがそれは「名誉の戦傷す」だったのだ… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 9 6月 1937 貧しい傷痍軍人に対し授産の養鶏講習 昭和12年6月9日の岩手日報より。 支那事変で戦争が発生すれば傷痍軍人が発生する。 傷痍軍人を一生職もなく遊ばせておくほどの国力は日本にはなかった。 だから何かをして働いてもらわないといけない。 それで、盛岡連隊区司令部職業補導部では、名誉の戦傷を受け貧困に陥っている家庭の為に、6月15日~21日に… 続きを読む
l全県 3 3月 1935 事変従軍徽章は県内3000名(S10.3.3岩手日報) 「今次事変の従軍者」・・・とあるが、この時点の「事変」とは、昭和6〜7年の満州事変だろうか。 ともかくもその事変に従軍したのが岩手県内では3000名であるとのことで、その徽章が届いたと言うニュース。… 続きを読む
備考※1 24 2月 1933 【参考】松岡洋右の国際連盟脱退演説「我が代表堂々退場す」 岩手とは直接関係ないニュースではあるが、時代相を知る資料として。 満州事変の事実関係の調査を行った「リットン調査団」の調査報告書を国際連盟の場で採択することになった。 要は「日本が悪い。満州から手を引け」と。 松岡洋右は流暢な英語で長広舌の演説を行ったが、結局は42対1で採択される。 これに対し、松… 続きを読む
l全県 2 2月 1933 山海関の戦いで本県出身兵士は(S8.2.2岩手日報) 昭和8年3月1日、日中戦争で山海関の戦いがあったが、本県出身の将兵も戦いに参加していた。 戦死した兵士は新聞に名前が載り、負傷兵は新聞の取材を受けていた。… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 31 10月 1932 愛国婦人会長「岩手支部の成績は大変よろしいです」(昭和7年10月31日) 昭和7年10月31日の岩手日報より。 愛国婦人会長の本野久子は、事務総長等を引き連れて石黒知事夫人の出迎えを受けて、10月31日12時18分着の列車で盛岡に来た。 14時からの岩手支部協議会に臨んだ本野会長は「石黒知事がよくやってくださるので、岩手支部の成績は誠によろしゅうございます。本部員一同感謝… 続きを読む