b二戸・二戸郡 12 11月 1949 奥中山のさらに奥の開拓部落(S24.11.12岩手新報) 北上川と馬淵川の分水嶺である奥中山の、さらに奥にある開拓部落である下田子部落に入植した開拓民の話。 「日本のチベット」岩手県にはこんな部落がいくらでもあった。… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 3 11月 1949 葛巻町で産業祭(昭和24年11月3日) 昭和24年11月3日の岩手新報より。 葛巻町では、秋の収穫を祝って11月1日から3日まで葛巻小学校で産業祭が開催され、雨の中を多くの人出で賑わったと言う。 ところで、葛巻町と言うのは馬淵川の源流域にあるので、二戸や一戸と同じ二戸郡にありそうなものであるが、実は、久慈や野田から塩を運ぶ野田街道の宿場町… 続きを読む
j生活 1 9月 1949 ブドーの実もたわわに揺れる(昭和24年9月1日) 昭和24年9月1日の岩手新報より。 「九月のこよみ」という、9月の予定を列挙した記事。 どこのブドー園かは不明であるが、ブドー(記事原文ママ)の実もたわわに揺れて実りの秋を迎えようとしている。 二百十日にはキッティ台風(記事原文ママ)が来て農家の厄日となりそうだ・・・と書いている。 そして、「サンマ… 続きを読む
f花巻・稗貫郡 4 3月 1949 ヤミ屋「儲からないので開拓農にさせてくれ」(昭和24年3月4日) 昭和24年3月4日の岩手新報より。 この時期に、闇屋も生活が厳しかったようで、花巻にある稗貫地方事務所には、そんな闇屋から「助成金はいつでもいいので開拓農にさせてくれ」と言う申し出が相次いでいたのだと言う。 … 続きを読む
l全県 29 9月 1948 岩手県「農家の皆さん!供米はお早めに!」(昭和23年9月29日) 昭和23年9月29日の岩手新報より。 この当時は米は配給制であり、闇米が流通しては摘発されていた時代である。 米の早期供出が行政によって奨励されていた。 … 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 14 7月 1948 赤川用水路通水式で関係各村はお祝い広告(昭和23年7月14日) 昭和23年7月14日の岩手新報の広告欄より。 赤川用水路の通水式が行われ、関係各村からもお祝い広告が出されている。 村役場が直接出してるだけでも岩手郡巻堀村、渋民村、大更村と、松尾鉱山のふもとの赤川を農業用水に使っている各村から出されていた。 ただし、この赤川用水路は松尾鉱山の垂れ流す酸性水で何年も… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 2 12月 1947 県食糧営団に200俵詰める大型トレーラー(昭和22年12月2日) 昭和22年12月2日の新岩手日報より。 県食糧営団では、輸送力の不足による配給の遅配をなくすべく、これまでのトラックの3倍積めるというトレーラーを導入することにした。 これまでの普通トラックでは60俵積みであったところ、3倍以上積めるので期待を寄せられていた。  … 続きを読む
l全県 3 9月 1947 二百十日が無事過ぎる(S22.9.3新岩手日報) 台風の特異日である「二百十日」は、農家にとって収穫を根こそぎ奪われるリスクの高い日で恐れられていた。 この年は、無事平穏に済んだようである。 … 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 9 9月 1946 岩手開拓公社が時局講演会(昭和21年9月9日) 昭和21年9月9日の新岩手日報より。 岩手開拓公社が「時局講演会」と言う戦時中じみた講演会をするのだと言う。… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 8 9月 1946 日詰の秋祭りが10年ぶりに復活(昭和21年9月8日) 昭和21年9月8日の新岩手日報より。 日詰の秋祭りは10年ぶりに復活したのだと言う。 そして、さんさ踊り獅子舞や手踊りなどをにぎやかに繰り出したが、中でも人気があったのは鍛冶町各組から出た5つの樽神輿であったと言う。 紺の匂いも昔懐かしく、お揃いのハッピとねじりハチマキとわらじ姿でわっしょいわっしょ… 続きを読む
f花巻・稗貫郡 1 7月 1946 花巻税務署「供米完納者に所得税がかかるなんてデマですよ!」(S21.7.1新岩手日報) この時期、県内の米どころ・花巻町周辺ではある噂が流れていた。 「米の供出を完遂したら所得税が重くかかる」 この噂を否定するために、花巻税務署員は躍起になっていた。… 続きを読む
l全県 17 8月 1945 さあ、麦の供出だ(昭和20年8月17日) 昭和20年8月17日の岩手日報より。 それまで農家は「教室する麦を空襲で焼いては申し訳ない」と、袋に詰めて山の中に疎開させていた。 しかし、20日の供出期日が切迫していたので、農家は山から下ろしていた。 それまでの供出は、戦争に勝つための供出であったが、戦争が終わってしまったので、勝つための供出では… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 15 8月 1945 新盆に初穂 声に出して読みたい盛岡弁 終戦の日、つまり昭和20年8月15日の新岩手日報では、盛岡郊外の農家を取材している。 「この初穂、見でくなんせ。お盆に穂が出だら豊作でがす」 終戦の年は暑い夏だったといろいろな所で報告されている。 稲作は豊作の兆しであった。 「わしと同じ様にこの田を耕した祖先や戦死した倅も新盆で家に来てこの出穂をみ… 続きを読む
i一関・西磐井郡 8 7月 1945 西磐井郡の学童の山菜採取成績(昭和20年7月8日) 昭和20年7月10日の岩手日報より。 西磐井郡の各国民学校の山菜採取状況は以下の通りであったという。 一関国民学校 303貫 油島国民学校 411貫 花泉国民学校 181貫 金沢国民学校 805貫 老松国民学校 175貫 弥栄国民学校 291貫 萩荘国民学校 201貫 厳美国民学校 1011貫 山目… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 2 7月 1945 夏至も過ぎ、田植えはほぼ終了(昭和20年7月2日) 昭和20年7月2日。 夏至も過ぎ、田植えもほとんど終了してお百姓さんありがとうという写真記事が掲載されている。… 続きを読む
j東磐井郡 1 8月 1944 東磐井郡の大日本婦人会員が傷痍軍人に蕨・ぜんまいを贈る(昭和19年8月1日) 昭和19年8月1日の岩手日報より。 東磐井郡下の大原・興田・折壁・奥玉・大津保・田河津・猿沢・長坂・舞川・門崎・渋民の各村の大日本婦人会支部員は、ワラビやゼンマイを採取しこれを乾燥したものが150貫(562.5kg)に達したので、これを傷痍軍人の為に送ることにした。 &n… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 7 4月 1943 悪質なデマで米の供出を阻んだ村長を逮捕(昭和18年4月7日) 昭和18年4月8日の岩手日報より。 岩手県警察部特高課では、悪質なデマで米の供出を阻んだとして、4月7日に以下の3名を逮捕したという。 以下の表現は記事中の表現ママ。 岩手郡某村長 東磐井郡某村長 和賀郡谷内村某 … 続きを読む
i一関・西磐井郡 1 4月 1943 萩荘村の凍み豆腐が前線へ(昭和18年4月1日) 昭和18年4月1日の新岩手日報より。 西磐井郡萩荘村の凍豆腐は、県内で唯一の軍需凍豆腐として前線に送られることになった。 3月29日には、製品検査が行われたが、その成績も極めて良好で近いうちに発送することになったのだと言う。 … 続きを読む
i一関・西磐井郡 3 7月 1942 西磐井郡真滝村の狐禅寺で落下傘を供え蚕霊供養(S17.7.3新岩手日報) 西磐井郡真滝村(現:一関市)の狐禅寺で、蚕業婦人会が絹糸で生産された落下傘を供えて、蚕の霊を供養していた。… 続きを読む
j東磐井郡 1 11月 1941 千厩に「たばこ神社」(昭和16年11月1日) 昭和16年11月1日の岩手日報より。 葉タバコの産地として名高い東磐井地方では、紀元2600年を記念して「たばこ神社」を設立した。 そして水沢の駒形神社の宮司により、鎮座祭がおこなわれた。 現在でもなお、東磐井郡の観光スポットとして名前が上がっている。 … 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 1 11月 1941 国民学校の女教師も稲刈りに援軍(S16.11.1新岩手日報) まだ対米交渉に苦労していた時期。 資源も無くなっていき、国民生活も逼迫し始めていた時のこと。 国民学校の女教師は、加賀野の女子師範の農場で稲刈りに駆り出されることとなった。… 続きを読む
l全県 1 7月 1939 警察「ガソリンの統制破りしやがって!配給は無しだ!」→製糸会社「春繭の集荷シーズンに御無体な…」 昭和14年7月1日の岩手日報より。 岩手県内の県是製糸などがガソリン統制を破って16,000ガロンのガソリン密売事件をやらかした。 県是製糸側は「規制前に契約したものが規制後に到着しただけ。別に密売のつもりはなかった」と言うが、警察経済保安課は「同情する余地はない」と、ガソリン5,000ガロンの特配… 続きを読む
h水沢・江刺・胆沢郡 5 3月 1938 江刺郡稲瀬村に「精農塾」 昭和13年3月5n日の岩手日報より。 江刺郡稲瀬村に、この年度の経済厚生助成事業として、稲瀬小学校の隣に「精農塾」を設置することとした。 これは、青年修養施設として、青年団員や青年学校生徒を合宿させ、農民精神の高揚や村有地の開墾事業を行わせるというもの。 精農塾には、農具はもとより荷車、農薬といった… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 8 6月 1937 「雫石アネコ」の田植えを見物に行こう 昭和12年6月10日の岩手日報より。 見出しは「色とりどり雫石名物 美しの早乙女が泥田に描く詩情」。 令和になった今でも道の駅の名前になっているなど、雫石町の観光資源となっている「雫石あねっこ」であるが、それは戦前からだったようである。 岩手日報社により、雫石アネコの見物団が組織され、川口村長、盛岡… 続きを読む
f花巻・稗貫郡 17 5月 1937 ヤンマーヂーゼル「原動機の改革時代来たる!」(昭和12年5月17日) 昭和12年5月17日の岩手日報より。 広告欄にはヤンマーの原動機の広告。 この当時の原動機といえば、脱穀やポンプに使っていただろうか。 … 続きを読む
b二戸・二戸郡 1 5月 1936 田山セツルメント生活日誌(S11.5.1岩手日報) 盛岡友の会による田山セツルメントの生活日誌であるという。 「盛岡友の会」は確か現在の盛岡スコーレ高校を経営している向中野学園と何か関係があったような・・・ … 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 1 5月 1936 紫波郡古舘女子青年学校で農業労働(昭和11年5月1日) 昭和11年5月1日の岩手日報より。 紫波郡の古舘女子青年学校では、果樹園で施肥や薬剤散布の作業をおこなった… という写真記事。 … 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 13 4月 1935 凶作に恵まれて?女の失対事業花盛り(S10.4.13岩手日報) 昭和9年は史上稀見る凶作の年だった。 そのせいでか、県内に84ヶ所の農村主婦向けの授産場ができたという。 盛岡市内の浄土宗の寺に設けられた軍服の修繕工場もその1つ。… 続きを読む
e釜石・遠野・上閉伊郡 3 3月 1935 上閉伊郡金沢村では「村民絶対禁酒」(昭和10年3月3日) 昭和10年3月3日の岩手日報より。 上閉伊郡金沢村では、更生村民大会において、村民は絶対禁酒で、この決まりを破ったら冷害の義援金を交付しないと言う決議を行った。 これは、同様に例外に苦しんでいた県内でも珍しいことであった。 … 続きを読む