海外移民・引揚

【参考】中国残留孤児 備考※1

【参考】中国残留孤児

中日ニュースで昭和54年9月28日公開。 確かにワイドショーなどでは中国残留孤児が話題になっており、「黒竜江省」「遼寧省」「吉林省」と言った地名をよく聞いたものだった。 https://www.youtube.com/watch?v=JXP2X6O427A…
一関から南米に移民する3家族の送別会(昭和35年7月9日) i一関・西磐井郡

一関から南米に移民する3家族の送別会(昭和35年7月9日)

昭和35年7月9日の岩手報知より。 一関市大平開拓地から、南米パラグアイに行く3世帯17名の送別会が中里農協会議室で開かれた。 送別会には一関市長、一関市農林課長、市内各農業組合長、開拓連盟支部長など60人が集まった。 移民団の代表からは「このような盛大な送別会を開いていただいて感謝にたえません。パ…
岩手県選出の社会党議員が中国の戦犯収容所を視察 a盛岡・岩手郡・紫波郡

岩手県選出の社会党議員が中国の戦犯収容所を視察

昭和30年11月29日の岩手日報より。 岩手県出身で日教組の副委員長まで務め、参議院議員となっている小笠原二三男氏は、1か月の日程で陽春・北京・哈爾浜・瀋陽・上海・長春・撫順と中共の教育事情を視察し、28日に急行「十和田」で盛岡に帰り、「中国の教育は素晴らしいの一言に尽きる!」とベタ褒めしていた。 …
ブラジルから「岩手県人を」と指名で求人(昭和30年6月8日) c久慈・九戸郡

ブラジルから「岩手県人を」と指名で求人(昭和30年6月8日)

昭和30年6月8日のデーリー東北より。 久慈職業安定所に、6月8日、ブラジル行きの工業技術者皆が欲しいと求人依頼が舞い込んだ。 これは、岩手県出身で、この記事の現在ではリオデジャネイロでブラジル特産の宝石や貴金属製品を送り出している滞米40年の実業家によるものだった。 特に忍耐強い岩手県人を10名を…
岩手からブラジルに移民「ドシドシ移民お待ちしてま~す」 a盛岡・岩手郡・紫波郡

岩手からブラジルに移民「ドシドシ移民お待ちしてま~す」

昭和30年5月18日の岩手日報より。 盛岡からブラジルに移民した養蚕農家の話を伝えている。 昭和29年7月に戦後初の養蚕移民としてサンパウロ州バストスに移民したのだという。 そして9月11日にバストスに到着し、元気に働き始めたのだという。 このバストス、「日本人は9割、外人は1割」なのだそうで、岩手…
まだ引揚げせず中国に残っている岩手県出身者は75名(昭和29年3月3日) m県外・参考

まだ引揚げせず中国に残っている岩手県出身者は75名(昭和29年3月3日)

昭和29年3月3日の岩手日報より。 この前年の昭和28年、中国(記事内の表現では「中共」)からの引揚げが第7次にわたって行われた。 これで帰国した岩手県関係の引揚者は193世帯、339名であったが、まで引き上げていない60世帯、75名がいることが分かった。 中国側では「もう引揚げ希望は無いもの」とし…
ソ連からの帰還を待つ水沢の一家(S28.11.20胆江日日新聞) h水沢・江刺・胆沢郡

ソ連からの帰還を待つ水沢の一家(S28.11.20胆江日日新聞)

終戦から8年たってもなお、引揚は100%済んだわけではなかった。 戦時中に朝鮮に渡っていたところ、家庭の事情で、日本に妻と子だけ引き上げていたところ、戦争が終わってしまい、夫と音信不通になってしまったと言うのだ。 それが、終戦から8年経って、ソ連で暮らしていると言う便りが届いたのであった。 &nbs…
中共からの帰国者のその後(昭和28年8月25日) i一関・西磐井郡

中共からの帰国者のその後(昭和28年8月25日)

昭和28年8月25日の岩手日日より。 興安丸に乗って中国から帰国してきた人々はその後どうなっただろうか。 日本社会に順応しているだろうか。 一関市や西磐井郡では12世帯、27名いたのだという。 その数例を追う記事である。 一関市 42歳男性 昭和19年に三井鉱山本社から満州三井に転任。 引揚後、三井…
盛岡市青山は「引揚者の町」だった a盛岡・岩手郡・紫波郡

盛岡市青山は「引揚者の町」だった

昭和27年10月7日の岩手日報より。 盛岡市青山町は、住民の実に7割までが引揚者であり、「岩鷲寮」には樺太からの無縁故引揚者が657世帯2785名、「青山寮」には朝鮮・台湾・南方からの引揚者が503世帯2322名入っていたという。 かつては「観武(みたけ)ヶ原」と呼ばれていた帝国陸軍の師団があった場…
大船渡では引揚者が自力で更生市場(昭和24年11月1日) k大船渡・陸前高田・気仙郡

大船渡では引揚者が自力で更生市場(昭和24年11月1日)

  昭和24年11月1日の岩手新報より。 気仙郡大船渡町では、引揚者が町議会議員の協力を得て国からの援助を断って自力で公正市場を作り上げたのだと言う。 そしてその途上では、世間の冷笑があったのだと言う。 現代の観点からだと、ちょっと想像しにくい話なのだが、引揚者が自分たちで生活を更生しよう…
第二次引揚者は小学生を動員して青い旗で迎えましょう(昭和24年7月15日) l全県

第二次引揚者は小学生を動員して青い旗で迎えましょう(昭和24年7月15日)

昭和24年7月15日の岩手新報より。 中国大陸からの第二次引揚者入港を前に、県引揚援護課の運動協議会では「留守宅では引揚者に手紙を書くよう呼びかけたが、岩手県が一番少ない。手紙には朱書きで県名と『留守宅通信』である旨書くこと」と呼びかけていた。 また、引揚者が駅に到着したときのために、日の丸ではなく…
引き揚げ者援護のために歌謡コンクールやダンスパーテー(昭和22年12月1日) a盛岡・岩手郡・紫波郡

引き揚げ者援護のために歌謡コンクールやダンスパーテー(昭和22年12月1日)

昭和22年12月1日の新岩手日報より。 戦争が終わり、満州や朝鮮にいた人は引き揚げてきたわけだが、その経済的な貧窮は社会問題となっていた。 このために「角田屋事件」という誘拐事件まで起きたほどである。 これを憂慮してから、引揚者援護のために歌謡舞踊コンクールや大ダンスパーティーを開催すると言う事だっ…
樺太からの脱出者に聞く樺太の現状(昭和21年7月1日) d宮古・下閉伊郡

樺太からの脱出者に聞く樺太の現状(昭和21年7月1日)

昭和21年7月1日の岩手日報より。 終戦後10か月余り、ソ連に占領された南樺太で生活を続け、昭和21年に年が明けてから脱出した宮古市内の30歳の男性に、終戦後の樺太の様子を聞くことにした。 終戦時の混乱 国境近くの気屯飛行場で警備にあたっていた。 その後敷香まで土工を率いて敷香に行くことを命ぜられた…