l全県 7月 15日 1949 第二次引揚者は小学生を動員して青い旗で迎えましょう(昭和24年7月15日) 昭和24年7月15日の岩手新報より。 中国大陸からの第二次引揚者入港を前に、県引揚援護課の運動協議会では「留守宅では引揚者に手紙を書くよう呼びかけたが、岩手県が一番少ない。手紙には朱書きで県名と『留守宅通信』である旨書くこと」と呼びかけていた。 また、引揚者が駅に到着したときのために、日の丸ではなく… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 6月 29日 1949 盛岡・穀町に子供達にお金をまく米人少女あらわる(昭和24年6月29日) 昭和24年7月1日の岩手新報より。 盛岡市穀町(現在の南大通)に、子供たちにお金をまくアメリカ人少女が現れたという。 その少女は名前も名乗らずにどこかへ消えたのだという。 これに対しGHQの岩手軍政部では「アメリカではいつものこと」とコメントした。 … 続きを読む
b二戸・二戸郡 5月 3日 1949 金田一京助「ナニャドヤラはヘブライ語ではなく方言」(昭和24年5月3日) 昭和24年5月3日の新岩手日報より。 青森県の新郷村から岩手県の二戸郡にかけて、盆踊りで「ナニャドヤラ」(新聞の文中では「ニヤニヤトヤラー」)が歌われるが、これはヘブライ語由来ではなく、方言が添加したものであると言う金田一京助の学説を紹介した。 … 続きを読む
m県外・参考 5月 1日 1949 日本とドイツのオリンピック参加を承認(昭和24年5月1日) 昭和24年5月1日の新岩手日報より。 IOCは、ローマで開かれた委員会で日本とドイツのオリンピック参加を承認した。 この当時、日本は「occupied Japan」で国家主権はなかったのだが、IOCとしては「1つの国家の団体と認める」と言う裁定を下したのだ。… 続きを読む
m県外・参考 3月 4日 1949 東京でアメリカの子供が「ヒナマツリ」を堪能(昭和24年3月4日) 昭和24年3月4日の岩手新報より。 東京・渋谷区で、アメリカの子供達がひな祭りを堪能したというニュースが岩手でも報じられた。 … 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 12月 1日 1947 引き揚げ者援護のために歌謡コンクールやダンスパーテー(昭和22年12月1日) 昭和22年12月1日の新岩手日報より。 戦争が終わり、満州や朝鮮にいた人は引き揚げてきたわけだが、その経済的な貧窮は社会問題となっていた。 このために「角田屋事件」という誘拐事件まで起きたほどである。 これを憂慮してから、引揚者援護のために歌謡舞踊コンクールや大ダンスパーティーを開催すると言う事だっ… 続きを読む
d宮古・下閉伊郡 7月 1日 1946 樺太からの脱出者に聞く樺太の現状(昭和21年7月1日) 昭和21年7月1日の岩手日報より。 終戦後10か月余り、ソ連に占領された南樺太で生活を続け、昭和21年に年が明けてから脱出した宮古市内の30歳の男性に、終戦後の樺太の様子を聞くことにした。 終戦時の混乱 国境近くの気屯飛行場で警備にあたっていた。 その後敷香まで土工を率いて敷香に行くことを命ぜられた… 続きを読む
l全県 7月 2日 1945 「お願い!内地の人!朝鮮で警察官になって!」(昭和20年7月2日) 昭和20年7月2日の岩手日報の広告欄より。 「朝鮮総督府警察官大増員」という広告がある。 応募資格は「徴兵ヲ終ヘタル満十九歳以上四十歳ノ内地人」。 内地人限定であった。 岩手県下での採用試験は、岩手県警察官練習所と、花巻警察署の2か所であった。 … 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 7月 2日 1939 岩手中学を卒業した6人が大陸開発に張り切る(S14.7.2新岩手日報) この時期、大陸への「進出」が盛んに行われていたが、岩手中学を卒業した6人もハルビンで頑張ることにした、というニュース。… 続きを読む
k大船渡・陸前高田・気仙郡 4月 29日 1936 大船渡に大きな船が渡ってきた(昭和11年4月29日) 昭和11年5月1日の岩手日報より。 大船渡の港に、世界的に有数のタンカーであるノールウェイドラフン号が着岸した。 このドラフン号は、12,000トンであると言う。 そして、4500トンの重油を日石タンクにあげた。 この巨大の船の入稿に、気仙郡の郡民の見物客は500人から600人に及んだと言う。 子供… 続きを読む
h水沢・江刺・胆沢郡 3月 2日 1935 サンパウロに「愛宕村」を作りたい(S10.3.2岩手日報) 江刺郡愛宕村からブラジルへは、50家族150人余りが移住していたが、「サンパウロに愛宕村を作りたい」と意気盛んであった。… 続きを読む
l全県 3月 2日 1933 ブラジル移民大募集 昭和8年3月2日の岩手日報より。 岩手県庁がブラジルへの移民を募集している。 「3人以上の家族に限る」としているのは、労働力を求めていたサンパウロ州政府側がそのように求めていたため。 … 続きを読む
備考※1 2月 24日 1933 【参考】松岡洋右の国際連盟脱退演説「我が代表堂々退場す」 岩手とは直接関係ないニュースではあるが、時代相を知る資料として。 満州事変の事実関係の調査を行った「リットン調査団」の調査報告書を国際連盟の場で採択することになった。 要は「日本が悪い。満州から手を引け」と。 松岡洋右は流暢な英語で長広舌の演説を行ったが、結局は42対1で採択される。 これに対し、松… 続きを読む
l全県 9月 11日 1931 中華民国の大水害に岩手県下でも義援金 昭和6年9月11日の岩手日報より。 1931年の中国における大水害は、Wikipedia日本語版にも項目が立っているほどである。 このことは当時の岩手県内でも話題になっており、岩手県社会課では1口1円以上で、9月25日まで義捐金を募ることとした。 岩手県庁だけではなく、愛国婦人会岩手県支部でも同様に… 続きを読む
m県外・参考 9月 3日 1929 「一寸法師歌劇団」が来朝(昭和4年9月3日) 昭和4年9月5日の岩手日報より。 身長わずか2尺3寸(約70cm)〜2尺9寸(約100cm)と言うモダーンな歌劇団の男女一行が9月3日に来朝したと言う。 この時代らしく「モボ」「モガ」揃いだと記事には書いてある。 団長は55歳で、その他は20代であったと言う。 どこの国から来たと言う事は書いていない… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 9月 2日 1928 ドイツ留学から帰ってきた盛岡高等農林学校教授(S3.9.2岩手日報) 家畜病理学の研究のためにドイツに留学していた盛岡高等農林学校の教授が、3年間の留学期間を終えて盛岡に帰って来たというニュース。… 続きを読む