l全県 4 2月 1950 シベリアからの引揚促進に県民の声を結集(昭和25年2月4日) 昭和25年2月4日の新岩手日報より。 この時期、シベリア抑留は社会問題になっていた。 そこで、引揚促進の全国大会が開かれるに、先立ち、県内でも声を集めようと言うことになっていたようだ。 … 続きを読む
f花巻・稗貫郡 2 2月 1950 日中友好協会岩手県支部結成(昭和25年2月2日) 昭和25年2月2日の新岩手日報より。 岩手2区選出の社会党議員・北山愛郎により日中友好協会岩手県支部が結成された。 この当時、日本と国交があったのは「国府」の方で、つまり中華民国の台湾の方。 … 続きを読む
l全県 15 1月 1950 アメリカ赤十字青少年部から岩手の子供達にギフトボックス(S25.1.15岩手新報) 昭和25年(1950年)1月15日付の岩手新報に、戦後の空気をよく伝える小さな国際ニュースが載っている。 アメリカの少年少女から贈られた 65個のギフトボックス が、米国赤十字社を通じて日本赤十字社本部に渡り、さらに岩手県支部へと届けられたという記事だ。 Screenshot この贈り物の原資となっ… 続きを読む
e釜石・遠野・上閉伊郡 4 1月 1950 釜石から北朝鮮への帰国者の記念植樹(S35.1.4岩手東海新聞) 釜石市から、北朝鮮に帰国する帰国者が10名いたのだそうで、それを記念して植樹が行われた。 … 続きを読む
k大船渡・陸前高田・気仙郡 1 11月 1949 大船渡では引揚者が自力で更生市場(昭和24年11月1日) 昭和24年11月1日の岩手新報より。 気仙郡大船渡町では、引揚者が町議会議員の協力を得て国からの援助を断って自力で公正市場を作り上げたのだと言う。 そしてその途上では、世間の冷笑があったのだと言う。 現代の観点からだと、ちょっと想像しにくい話なのだが、引揚者が自分たちで生活を更生しよう… 続きを読む
l全県 15 7月 1949 第二次引揚者は小学生を動員して青い旗で迎えましょう(昭和24年7月15日) 昭和24年7月15日の岩手新報より。 中国大陸からの第二次引揚者入港を前に、県引揚援護課の運動協議会では「留守宅では引揚者に手紙を書くよう呼びかけたが、岩手県が一番少ない。手紙には朱書きで県名と『留守宅通信』である旨書くこと」と呼びかけていた。 また、引揚者が駅に到着したときのために、日の丸ではなく… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 29 6月 1949 盛岡・穀町に子供達にお金をまく米人少女あらわる(昭和24年6月29日) 昭和24年7月1日の岩手新報より。 盛岡市穀町(現在の南大通)に、子供たちにお金をまくアメリカ人少女が現れたという。 その少女は名前も名乗らずにどこかへ消えたのだという。 これに対しGHQの岩手軍政部では「アメリカではいつものこと」とコメントした。 … 続きを読む
b二戸・二戸郡 3 5月 1949 金田一京助「ナニャドヤラはヘブライ語ではなく方言」(昭和24年5月3日) 昭和24年5月3日の新岩手日報より。 青森県の新郷村から岩手県の二戸郡にかけて、盆踊りで「ナニャドヤラ」(新聞の文中では「ニヤニヤトヤラー」)が歌われるが、これはヘブライ語由来ではなく、方言が添加したものであると言う金田一京助の学説を紹介した。 … 続きを読む
m県外・参考 1 5月 1949 日本とドイツのオリンピック参加を承認(昭和24年5月1日) 昭和24年5月1日の新岩手日報より。 IOCは、ローマで開かれた委員会で日本とドイツのオリンピック参加を承認した。 この当時、日本は「occupied Japan」で国家主権はなかったのだが、IOCとしては「1つの国家の団体と認める」と言う裁定を下したのだ。… 続きを読む
m県外・参考 4 3月 1949 東京でアメリカの子供が「ヒナマツリ」を堪能(昭和24年3月4日) 昭和24年3月4日の岩手新報より。 東京・渋谷区で、アメリカの子供達がひな祭りを堪能したというニュースが岩手でも報じられた。 … 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 1 12月 1947 引き揚げ者援護のために歌謡コンクールやダンスパーテー(昭和22年12月1日) 昭和22年12月1日の新岩手日報より。 戦争が終わり、満州や朝鮮にいた人は引き揚げてきたわけだが、その経済的な貧窮は社会問題となっていた。 このために「角田屋事件」という誘拐事件まで起きたほどである。 これを憂慮してから、引揚者援護のために歌謡舞踊コンクールや大ダンスパーティーを開催すると言う事だっ… 続きを読む
d宮古・下閉伊郡 1 7月 1946 樺太からの脱出者に聞く樺太の現状(昭和21年7月1日) 昭和21年7月1日の岩手日報より。 終戦後10か月余り、ソ連に占領された南樺太で生活を続け、昭和21年に年が明けてから脱出した宮古市内の30歳の男性に、終戦後の樺太の様子を聞くことにした。 終戦時の混乱 国境近くの気屯飛行場で警備にあたっていた。 その後敷香まで土工を率いて敷香に行くことを命ぜられた… 続きを読む
l全県 2 7月 1945 「お願い!内地の人!朝鮮で警察官になって!」(昭和20年7月2日) 昭和20年7月2日の岩手日報の広告欄より。 「朝鮮総督府警察官大増員」という広告がある。 応募資格は「徴兵ヲ終ヘタル満十九歳以上四十歳ノ内地人」。 内地人限定であった。 岩手県下での採用試験は、岩手県警察官練習所と、花巻警察署の2か所であった。 … 続きを読む
i一関・西磐井郡 25 11月 1941 一関出身の女性がアメリカから引き揚げて帰郷(S16.11.25新岩手日報) 昭和16年11月25日付の岩手日報には、開戦直前の極めて緊迫した情勢下でアメリカから帰国した、一関出身の45歳の女性のインタビューが掲載されています。 Screenshot 彼女はアメリカのシアトルやタコマ、そしてウィラパといった地域で33年にわたりクリーニング業を営んできました。12歳で渡米して以… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 2 7月 1939 岩手中学を卒業した6人が大陸開発に張り切る(S14.7.2新岩手日報) この時期、大陸への「進出」が盛んに行われていたが、岩手中学を卒業した6人もハルビンで頑張ることにした、というニュース。… 続きを読む
k大船渡・陸前高田・気仙郡 29 4月 1936 大船渡に大きな船が渡ってきた(昭和11年4月29日) 昭和11年5月1日の岩手日報より。 大船渡の港に、世界的に有数のタンカーであるノールウェイドラフン号が着岸した。 このドラフン号は、12,000トンであると言う。 そして、4500トンの重油を日石タンクにあげた。 この巨大の船の入稿に、気仙郡の郡民の見物客は500人から600人に及んだと言う。 子供… 続きを読む
h水沢・江刺・胆沢郡 2 3月 1935 サンパウロに「愛宕村」を作りたい(S10.3.2岩手日報) 江刺郡愛宕村からブラジルへは、50家族150人余りが移住していたが、「サンパウロに愛宕村を作りたい」と意気盛んであった。… 続きを読む
l全県 2 3月 1933 ブラジル移民大募集(S8.3.2岩手日報) 昭和8年、日本がブラジル移民を強力に推進した背景には、当時の社会が直面していた深刻な行き止まり感がありました。1920年代後半からの経済不況は、1929年の世界恐慌で決定的なものとなり、特に農村部は壊滅的な打撃を受けました。当時の日本は人口が急増していた一方で、国内の耕地面積には限界があり、あふれた… 続きを読む
備考※1 24 2月 1933 【参考】松岡洋右の国際連盟脱退演説「我が代表堂々退場す」 岩手とは直接関係ないニュースではあるが、時代相を知る資料として。 満州事変の事実関係の調査を行った「リットン調査団」の調査報告書を国際連盟の場で採択することになった。 要は「日本が悪い。満州から手を引け」と。 松岡洋右は流暢な英語で長広舌の演説を行ったが、結局は42対1で採択される。 これに対し、松… 続きを読む
l全県 11 9月 1931 中華民国の大水害に岩手県下でも義援金(S6.9.11岩手日報) 昭和6年9月11日の岩手日報には、当時の中華民国で発生した未曾有の大水害に対し、岩手県内でも義援金募集が始まったことが報じられています。 1931年中国大洪水は、黄河・長江・淮河流域を襲った一連の洪水で、記録上最悪級の自然災害とされます。前年までの旱魃に続く豪雨と雪解け、さらに活発だった台風活動が重… 続きを読む
m県外・参考 5 9月 1929 「一寸法師歌劇団」が来朝(S4.9.5岩手日報) 昭和4年9月3日、ある小さな人々の一行が「来朝」したとの報が、9月5日の『岩手日報』に掲載された。その名も「一寸法師歌劇団」。男女混成の近代的な一座でありながら、身長わずか二尺三寸(約70cm)から二尺九寸(約100cm)という小人症の団員たちで構成された異色の歌劇団である。 団員たちは、いわゆる「… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 2 9月 1928 ドイツ留学から帰ってきた盛岡高等農林学校教授(S3.9.2岩手日報) 昭和3年(1928年)9月2日付『岩手日報』は、盛岡高等農林学校(現・岩手大学農学部)の菊池賢次郎教授が、3年にわたるドイツ留学から帰国したことを伝えています。菊池教授は、家畜病理学の研究を目的に渡欧し、現地での実地研究と視察を重ねて帰国。帰途にはフランス、さらには南北アメリカにも立ち寄り、国際的な… 続きを読む