d国際

久慈市の山内市長が北京へ出発(昭和32年10月17日) c久慈・九戸郡

久慈市の山内市長が北京へ出発(昭和32年10月17日)

昭和32年10月19日のデーリー東北より。 北日本港湾都市市長団の三役として、中共の北京市の招きで10月23日に羽田国際空港から香港経由で旅立つ久慈市の山内市長は、10月17日13時市役所前から市長専用車で市役所前を出発した。 市長は「1ヵ月の間、を留守にしますが、皆さん元気で勤めをお願いします。戦…
久慈市長の訪中に際し壮行会(昭和32年10月15日) c久慈・九戸郡

久慈市長の訪中に際し壮行会(昭和32年10月15日)

昭和32年10月17日のデーリー東北より。 北京市長の招きで、「北日本港湾都市市長団」の三役として久慈市長も中国に行くこととなった。 それに対して、10月15日、市役所別館にて壮行会が150人を集めて行われた。 市長は「漁業、水産物の交易とコルホーズが中国ではどのようになっているかを見極めたい。また…
中共から来た青年団がわんこそばに大喜び a盛岡・岩手郡・紫波郡

中共から来た青年団がわんこそばに大喜び

昭和32年4月20日の読売新聞岩手版より。 中華人民共和国(当時は国交なし)から青年代表団5名が来日していたが、4月18日には青森から盛岡に来て繋温泉で宿泊。 翌19日には岩手大学農学部を見学し、阿部知事の招待に応じわんこそばで昼食会を行った。 この日の午後には県青年協会との交歓会に出席。 その後一…
岩手県選出の社会党議員が中国の戦犯収容所を視察 a盛岡・岩手郡・紫波郡

岩手県選出の社会党議員が中国の戦犯収容所を視察

昭和30年11月29日の岩手日報より。 岩手県出身で日教組の副委員長まで務め、参議院議員となっている小笠原二三男氏は、1か月の日程で陽春・北京・哈爾浜・瀋陽・上海・長春・撫順と中共の教育事情を視察し、28日に急行「十和田」で盛岡に帰り、「中国の教育は素晴らしいの一言に尽きる!」とベタ褒めしていた。 …
ブラジルから「岩手県人を」と指名で求人(昭和30年6月8日) c久慈・九戸郡

ブラジルから「岩手県人を」と指名で求人(昭和30年6月8日)

昭和30年6月8日のデーリー東北より。 久慈職業安定所に、6月8日、ブラジル行きの工業技術者皆が欲しいと求人依頼が舞い込んだ。 これは、岩手県出身で、この記事の現在ではリオデジャネイロでブラジル特産の宝石や貴金属製品を送り出している滞米40年の実業家によるものだった。 特に忍耐強い岩手県人を10名を…
岩手からブラジルに移民「ドシドシ移民お待ちしてま~す」 a盛岡・岩手郡・紫波郡

岩手からブラジルに移民「ドシドシ移民お待ちしてま~す」

昭和30年5月18日の岩手日報より。 盛岡からブラジルに移民した養蚕農家の話を伝えている。 昭和29年7月に戦後初の養蚕移民としてサンパウロ州バストスに移民したのだという。 そして9月11日にバストスに到着し、元気に働き始めたのだという。 このバストス、「日本人は9割、外人は1割」なのだそうで、岩手…
まだ引揚げせず中国に残っている岩手県出身者は75名(昭和29年3月3日) m県外・参考

まだ引揚げせず中国に残っている岩手県出身者は75名(昭和29年3月3日)

昭和29年3月3日の岩手日報より。 この前年の昭和28年、中国(記事内の表現では「中共」)からの引揚げが第7次にわたって行われた。 これで帰国した岩手県関係の引揚者は193世帯、339名であったが、まで引き上げていない60世帯、75名がいることが分かった。 中国側では「もう引揚げ希望は無いもの」とし…
ソ連からの帰還を待つ水沢の一家(S28.11.20胆江日日新聞) h水沢・江刺・胆沢郡

ソ連からの帰還を待つ水沢の一家(S28.11.20胆江日日新聞)

終戦から8年たってもなお、引揚は100%済んだわけではなかった。 戦時中に朝鮮に渡っていたところ、家庭の事情で、日本に妻と子だけ引き上げていたところ、戦争が終わってしまい、夫と音信不通になってしまったと言うのだ。 それが、終戦から8年経って、ソ連で暮らしていると言う便りが届いたのであった。 &nbs…
中共からの帰国者のその後(昭和28年8月25日) i一関・西磐井郡

中共からの帰国者のその後(昭和28年8月25日)

昭和28年8月25日の岩手日日より。 興安丸に乗って中国から帰国してきた人々はその後どうなっただろうか。 日本社会に順応しているだろうか。 一関市や西磐井郡では12世帯、27名いたのだという。 その数例を追う記事である。 一関市 42歳男性 昭和19年に三井鉱山本社から満州三井に転任。 引揚後、三井…
盛岡市青山は「引揚者の町」だった a盛岡・岩手郡・紫波郡

盛岡市青山は「引揚者の町」だった

昭和27年10月7日の岩手日報より。 盛岡市青山町は、住民の実に7割までが引揚者であり、「岩鷲寮」には樺太からの無縁故引揚者が657世帯2785名、「青山寮」には朝鮮・台湾・南方からの引揚者が503世帯2322名入っていたという。 かつては「観武(みたけ)ヶ原」と呼ばれていた帝国陸軍の師団があった場…
GHQ仙台民事局「東北地方は凶作続きで可哀想だから、我がアメリカで農業技術を学ばせてあげよう!」(昭和27年9月16日) a盛岡・岩手郡・紫波郡

GHQ仙台民事局「東北地方は凶作続きで可哀想だから、我がアメリカで農業技術を学ばせてあげよう!」(昭和27年9月16日)

敗戦により進駐軍が進出してきたわけだが、東北地方の民政は昭和20年の9月に塩竈から上陸したアメリカ軍第14軍団が、司令部を仙台・郵便貯金ビルに設置し行うこととなった。 そして昭和24年からは軍政をやめ、民政部となったのだが、その時期から仙台に勤務していたC.L.ミラー氏は、「恵まれない」東北の農業発…
釜石立ち寄りの貨客船にアメリカの旅行団 e釜石・遠野・上閉伊郡

釜石立ち寄りの貨客船にアメリカの旅行団

昭和27年9月4日の岩手日報より。 2日朝に釜石に入港した「マーチン・ベェクス」(5484トン)からアメリカの12人の観光団が上陸、旧盆で賑わう釜石市内を観光した。 この船は、サンフランシスコを出帆しマグネシアクリンカー1000トンを荷揚げし、横浜に立ち寄ったのちにシンガポールへ行くという。 日本最…
南部鉄瓶も「Made in Occupied Japan」(昭和27年9月3日) a盛岡・岩手郡・紫波郡

南部鉄瓶も「Made in Occupied Japan」(昭和27年9月3日)

昭和27年9月5日の岩手日報より。 後年「岩手県東京事務所」となる東京物産あっせん事務所に、アメリカはサンフランシスコの日系人から「南部鉄瓶50個」の依頼が舞い込んだ。 値段は東京渡しで700~2000円止まりという。 アメリカでは鉄瓶は日常使わず、飾り物にするのだという。   当時であれ…
言い方もあろうに「原爆美人」とは!?(昭和26年7月28日) m県外・参考

言い方もあろうに「原爆美人」とは!?(昭和26年7月28日)

昭和26年7月28日の「夕刊いわて」より。 これはAP通信からの国際ニュースで岩手とは関係ないが、デンマークのコペンハーゲンで「ミス・ビキニ」を選んでいるという話。 ビキニ環礁は当時から核実験場として有名であったが、その見出しを、ことあろうに「原爆美人」とは、とてもとてもこの時代でも許されたものでは…
大船渡では引揚者が自力で更生市場(昭和24年11月1日) k大船渡・陸前高田・気仙郡

大船渡では引揚者が自力で更生市場(昭和24年11月1日)

  昭和24年11月1日の岩手新報より。 気仙郡大船渡町では、引揚者が町議会議員の協力を得て国からの援助を断って自力で公正市場を作り上げたのだと言う。 そしてその途上では、世間の冷笑があったのだと言う。 現代の観点からだと、ちょっと想像しにくい話なのだが、引揚者が自分たちで生活を更生しよう…
第二次引揚者は小学生を動員して青い旗で迎えましょう(昭和24年7月15日) l全県

第二次引揚者は小学生を動員して青い旗で迎えましょう(昭和24年7月15日)

昭和24年7月15日の岩手新報より。 中国大陸からの第二次引揚者入港を前に、県引揚援護課の運動協議会では「留守宅では引揚者に手紙を書くよう呼びかけたが、岩手県が一番少ない。手紙には朱書きで県名と『留守宅通信』である旨書くこと」と呼びかけていた。 また、引揚者が駅に到着したときのために、日の丸ではなく…
盛岡・穀町に子供達にお金をまく米人少女あらわる(昭和24年6月29日) a盛岡・岩手郡・紫波郡

盛岡・穀町に子供達にお金をまく米人少女あらわる(昭和24年6月29日)

昭和24年7月1日の岩手新報より。 盛岡市穀町(現在の南大通)に、子供たちにお金をまくアメリカ人少女が現れたという。 その少女は名前も名乗らずにどこかへ消えたのだという。 これに対しGHQの岩手軍政部では「アメリカではいつものこと」とコメントした。  …
金田一京助「ナニャドヤラはヘブライ語ではなく方言」(昭和24年5月3日) b二戸・二戸郡

金田一京助「ナニャドヤラはヘブライ語ではなく方言」(昭和24年5月3日)

昭和24年5月3日の新岩手日報より。 青森県の新郷村から岩手県の二戸郡にかけて、盆踊りで「ナニャドヤラ」(新聞の文中では「ニヤニヤトヤラー」)が歌われるが、これはヘブライ語由来ではなく、方言が添加したものであると言う金田一京助の学説を紹介した。  …