l全県 5 10月 1952 大学入試センター試験ならぬ「進学適性検査」(昭和27年10月5日) 昭和27年10月5日の岩手日報の広告欄より。 この当時、国立の新制大学を受験する人は「進学適性検査」を受けなければならなかった。 そのあたりの詳細は、以下のページに書いてある。 後年でいう共通一次試験、センター試験同様「国立大学受験者はこの試験を受けなければいけない」という性質のものであるようだが、… 続きを読む
l全県 4 10月 1952 教育委員選挙:最後のお願い(S27.10.4岩手日報) 昭和27年の秋、岩手の町や村では教育委員の選挙が行われていた。 今では考えにくいが、当時は教育委員も公選制で、「先生を選ぶ人を選ぶ」時代である。翌日に投票を控え、候補者たちは「最後のお願い」に駆け回っていた。 Screenshot だがその光景は、いささかカオスだった。 ある村では、「誰が出るのか」… 続きを読む
g教育 4 10月 1952 教育委員選挙の風景(S27.10.04岩手日報) 昭和27年10月4日の岩手日報には、県内各地で熱を帯びていた「教育委員選挙」の様子が大きく紹介されています。現在の教育委員は首長による任命制ですが、この頃はまだ“住民が教育行政の担い手を選ぶ”という理想のもと、公選制が採用されていました。 Screenshot 紙面には選挙カーや街頭演説、農村での集… 続きを読む
l全県 4 10月 1952 教育委員選挙はカオス(昭和27年10月4日) 昭和27年10月4日の岩手日報より。 激戦地・一関市の最後のお願い。 戦後の民主化により、教育委員も公選制の時期があったのだが、なかなかのカオスな状況だったようである。 それで「最後のお願い」とばかりに、自転車だ、トヨペットだ、自動車だと演説に忙しい状況であった。 ちなみに「トヨペット」が自家用車の… 続きを読む
l全県 4 10月 1952 教育委員を選挙で選んでいた時期があった(昭和27年10月4日) 昭和27年10月4日の岩手日報より。 「町も村も教育の総選挙」という見出しで写真記事が掲載されている。 何の選挙かというと市町村の教育委員の選挙である。 戦後の民主化で、教育委員も選挙で選ぶことになった。 しかしこの制度には弊害もあったようで、教育の現場に政治が持ち込まれるということで… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 1 10月 1952 盛岡二高の教諭が生徒たちの輸血で快方に(昭和27年10月1日) 昭和27年10月1日の岩手日報より。 旧制の盛岡高等女学校が学制改革で改組された盛岡二高の3年B組の教諭は、小腸炎で入院したというが、輸血がなければ手術もできない状態であったという。 そこへ、担任するクラスの女生徒達が献血を申し出て、手術ができるようになったという。 教諭は非常に感激して感謝しか無い… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 18 9月 1952 岩手の死因は都市は結核、米作値は脳溢血、若者は自殺が多いようだ(昭和27年9月18日) 岩手県民はどのような理由で死ぬのか。 岩手大学農学部小柳達男氏が県内の地域別に死因の調査を行った。 米作地(水沢):10万人 死亡者・・・10万人中213.3人 脳溢血・・・同 38.3人 結核 ・・・ 同 24.4人 乳児栄養不良 ・・・ 同 22.3人 畑作地(福岡(二戸)):7万人 死亡者・・… 続きを読む
k大船渡・陸前高田・気仙郡 3 9月 1952 大船渡市の立根支所・立根中学校が新築落成 昭和27年9月3日の岩手日報より。 4月に市制したばかりの大船渡市で、立根支所(旧立根村役場)と立根中学校の校舎が完成し、完成記念式典が挙行された。 … 続きを読む
l全県 3 9月 1952 市町村教育委員会のあり方(昭和27年9月3日) 昭和27年9月3日の岩手日報より。 「昭和の大合併」の少し前、教育委員を選挙で選んでいたころ、各町村の教育委員会を維持運営するのもかなりの負担だったようだ。 それで、教育委員会は県にやってもらおう、という考えも一部にはあったようだが、それには根強い反対があった。 &nbs… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 3 8月 1952 厨川中学校にモダンな講堂完成 昭和27年9月3日の岩手日報より。 盛岡市立厨川中学校に市内で最も大きな講堂が完成した。 これは屋内体育館も兼ねている。 総工費は604万円であった。 … 続きを読む
h水沢・江刺・胆沢郡 1 7月 1952 江刺郡広瀬村では婦人会が卵を売って中学校にミシンを寄付(昭和27年7月1日) 昭和27年7月1日の岩手新聞より。 江刺郡広瀬村では中学校が建ったものの、財政が貧乏でミシンすら買えなかった。 それで、婦人会が一念発起して卵を売り、ミシンを寄贈したというのである。 … 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 1 5月 1952 講和条約が発効し盛岡のY小学校でも騎馬合戦(昭和27年5月1日) 昭和27年5月1日の岩手新聞より。 この年の4月28日、サンフラなシスコ講和条約が発効し、日本は国家主権を回復した。 そのおかげで、これまでGHQに「軍国主義につながる」と禁じられていた柔道や剣道などが解禁されることになった。 それで、盛岡のY小学校では騎馬合戦が繰り広げられることになったという。 … 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 3 8月 1951 慶應ボーイが自動車で東日本一周(S26.8.3岩手新報) 慶應義塾大学の学生数名が自動車で東京〜福島〜仙台〜盛岡〜青森〜新潟〜長野〜東京と東日本を一周するのだという。 そのついでに、岩手新報社に寄ったのだという。… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 14 6月 1951 与の字橋・入道雲・女子高生(昭和26年6月14日) 昭和26年6月14日の「夕刊いわて」より。 中の橋と上の橋の間にある与の字橋の向こうには入道雲が立っている。 そして遠足帰りの女子高生が渡る。 与の字橋の向こうにある女子校というと、盛岡二高(上の橋町)だろうか。 … 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 18 3月 1951 岩手公園の動物園で写生会(昭和26年3月18日) 昭和26年3月18日の「夕刊いわて」より。 盛岡市は、動物愛護週間の行事として、岩手公園の動物園に子供たちを呼んで写生会を行った。 見出しは「鹿はテレました」。 … 続きを読む
c久慈・九戸郡 6 2月 1951 九戸郡の寒村から給費生を久慈高校に送って岩大の教育学部に!(S26.2.6岩手新報) 昭和26年2月6日付の岩手新報を広げると、戦後の混乱から立ち上がり、未来を切り拓こうとする人々の力強い息吹が伝わってきます。 Screenshot この日の紙面で最も大きな注目を集めたのは、九戸郡が打ち出した無資格教員の一掃という教育改革の断行でした。当時の地方では、正規の免許を持つ教員が圧倒的に不… 続きを読む
e釜石・遠野・上閉伊郡 31 1月 1951 鵜住居中学校の校舎が近く完成(S26.1.31岩手新報) 現在は「釜石鵜住居復興スタジアム」が建っている釜石市鵜住居は、昭和の大合併までは「上閉伊郡鵜住居村」だった。 その鵜住居村の中学校の新校舎が建設中であった。 この鵜住居中学校が箱崎中学校・栗林中学校と合併し「釜石東中学校」となるのは昭和49年のこと。… 続きを読む
l全県 31 1月 1951 教科書の無料配布が難航(S26.1.31岩手新報) この年から小中学校の教科書か無料になったという。 しかし、その教科書を配布する市町村の予算ぐりがなされた訳ではなく、予定通りの配布ができないのではないかというニュース。… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 26 9月 1950 GHQ東北民事部オースチン教育課長が盛岡に来て県教育長と会談(昭和25年9月26日) 昭和25年9月27日の岩手日報より。 GHQ東北民事部のオースチン教育課長が、岩手県内の敎育状況視察の為に9月26日に盛岡に来て県教育長や教育委員と懇談した。 その席上、以下のようなことを述べた。 11月に予定されている教育委員の選挙は、組合色の強い教員の立候補はよくない。PTAが中心に政治色の無い… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 1 3月 1950 盛岡・一関・釜石で進学適性検査が行われる(昭和25年1月31日) 昭和25年2月1日の新岩手日報より。 当時の大学入学の共通テストである「進学適性検査」が、盛岡・一関・釜石の3会場で行われた。 当時は、大学入試センター試験も共通一次試験もないが、アメリカの意向によりそのようなテストが導入されたようだ。 ちなみに、昭和30年頃なくなったようであるが、以下の論文に詳し… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 20 2月 1950 盛岡市内各校は卒業シーズン(S25.2.20新岩手日報) 昭和25年(1950年)2月20日付の新岩手日報には、盛岡市内の学校に卒業シーズンが訪れた様子が、写真入りで紹介されている。 Screenshot 戦後間もない時代、まだ物資も十分とは言えない頃だが、紙面からは学び舎に満ちる若い息吹と、新たな門出を迎える高揚感が伝わってくる。 白百合高校 ― 卒業の… 続きを読む
l全県 15 2月 1950 進駐軍岩手民政部により導入された週休2日制はどうなった?(S25.2.15新岩手日報) 進駐軍の岩手民政部長官により、岩手県内の学校は週休2日制が導入されたようだ。 で、どんな経過を辿ったかという記事。… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 14 2月 1950 農村の衣食住学校「セツルメント」(S25.2.14新岩手日報) 県内各地で農村女性の衣食住学校「セツルメント」が開催されていた。 その中の一つ、紫波郡赤石村のセツルメントについて触れている。… 続きを読む
l全県 10 2月 1950 公立高校の募集状況(昭和25年2月10日) 昭和25年2月10日の新岩手日報より。 公立高校の募集状況は以下の通りとなっており、応募定員が釣果したのはわずかに盛岡・一関の両校だけであったという。 ちなみに、当時の盛岡高校は商業科が分離されておらず、柏高校とは盛岡農業高校、高松高校とは盛岡工業高校のこと。 … 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 6 2月 1950 岩手公園で「雪の芸術祭」(昭和25年2月6日) 昭和25年2月6日の新岩手日報より。 岩手公園では「雪の芸術祭」が行われ、盛岡市内の子どもたちによる雪像が多く並べられたという。 … 続きを読む
e釜石・遠野・上閉伊郡 3 2月 1950 上閉伊郡某高校とか言われても・・・(昭和25年2月3日) 昭和25年2月9日の新岩手日報より。 遠野町の商店で、上閉伊郡某高校の全日制と定時制の生徒が盗みを働いたというが、しかし上閉伊郡遠野町の高校というともう限られているのではないだろうか。 まして全日制と定時制の両方あった学校なんて・・・ ちなみに、遠野町が市制するのは昭和29年. … 続きを読む
i一関・西磐井郡 2 2月 1950 一関高校に分離運動(S25.2.2新岩手日報) 学制改革後、一関の中等学校である一関中学、一関高等女学校、一関工業学校、一関女子商業学校は合併して「一関高校」になっていた。 しかし、旧制一関中学である本校舎と、旧制一関高女である西校舎ではいろいろ弊害があったようだ。 … 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 12 1月 1950 不良化する盛岡の盛岡の戦後派学生(S25.1.12岩手新報) 盛岡市警察署管内でも、青少年は不良化しているようであった。 ダンスホールで不純異性交遊するなど。 … 続きを読む