m県外・参考 5 9月 1929 「一寸法師歌劇団」が来朝(S4.9.5岩手日報) 昭和4年9月3日、ある小さな人々の一行が「来朝」したとの報が、9月5日の『岩手日報』に掲載された。その名も「一寸法師歌劇団」。男女混成の近代的な一座でありながら、身長わずか二尺三寸(約70cm)から二尺九寸(約100cm)という小人症の団員たちで構成された異色の歌劇団である。 団員たちは、いわゆる「… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 3 9月 1929 仙北町裏田んぼでイナゴ取り(S4.9.3岩手日報) この日の紙面に掲載されたのは、わずか1枚の写真記事でした。 盛岡市仙北町の裏田んぼにて、数人の女性や子どもたちが、虫取り網や手桶を携え、イナゴを採っている風景が写っています。 記事の見出しは「イナゴはとられる」と簡潔にして印象的。 夏の終わりから初秋にかけて、農村ではイナゴを食料として採集する風習が… 続きを読む
m県外・参考 2 9月 1929 岩手出身の美術教師が帝展で入選(S4.9.2岩手日報) 昭和4年の帝国美術展覧会(帝展)において、東京府立第一高等女学校(現・東京都立白鷗高校)の美術教師・橋本花子さんが、「七面鳥」と題する作品で新入選を果たした。しかも今回は「折紙付きの特選」として、高い評価を受けたことが紙面で紹介されている。 橋本さんは青森市の出身で、女子美術学校(現・女子美術大学)… 続きを読む
h水沢・江刺・胆沢郡 2 9月 1929 渇水に悩む県南の電力事業者は火力発電所設置計画(S4.9.2岩手日報) 昭和4年9月2日付の岩手日報には、県南地域の電力供給をめぐる深刻な課題が報じられている。 記事によれば、当時の胆江・一関町営・気仙の三つの電力会社が、水力発電の限界に直面し、火力発電所の設置を検討していたという。 当時の地方電力は、ほとんどが河川を利用した水力発電に依存しており、渇水となれば発電能力… 続きを読む
d宮古・下閉伊郡 1 9月 1929 宮古町で腸チフス流行(S4.9.1岩手日報) 昭和4年9月1日付の岩手日報には、下閉伊郡宮古町における腸チフス流行の模様が伝えられています。 記事によれば、当時の宮古町では腸チフスの患者がすでに10名に達しており、町内の隔離病舎(定員14名)の収容力が限界に近づいていました。通常であれば数名の発症にとどまるところ、今回は綟々(れいれい)と患者が… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 7 9月 1928 日詰町の秋祭り(S3.9.7岩手日報) 昭和3年(1928年)9月、紫波郡日詰町(現在の紫波町)で行われた秋祭りの様子が、当時の岩手日報に掲載されている。紙面には、白装束の男たちが御神輿を担ぎ、山車が賑やかに町を巡る様子が写されており、地域の熱気がそのまま伝わってくる。 この秋祭りは、五穀豊穣や地域の安寧を祈願する重要な年中行事として、町… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 6 9月 1928 夕顔瀬橋でヤナ遊び(S3.9.6岩手日報) 昭和3年9月6日の岩手日報には、盛岡市内を流れる北上川の夕顔瀬橋下流で、子どもたちが川遊びに興じる姿が写真付きで紹介されています。 記事の見出しは「梁あそび」。写っているのは、褌(ふんどし)姿の子どもたちが浅瀬にしゃがみ込み、梁(やな)に集まった魚を捕まえようとしているところです。梁とは、竹や木材な… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 5 9月 1928 観武ヶ原の騎兵連隊から脱走兵(S3.9.5岩手日報) 昭和3年9月5日付『岩手日報』は、盛岡市観武ヶ原に駐屯する陸軍騎兵第二十三連隊附属の機関銃隊から、兵卒1名が脱走した事件を報じています。 脱走したのは、秋田県山本郡鹿渡村出身の兵卒で、記事では「狂へる兵卒」と表現されており、精神的に異常な言動があったとみられています。この兵は、当初は遊撃軍属として勤… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 4 9月 1928 盛岡市呉服町の洋服店「秋冬洋服均一注文!」(昭和3年9月4日) 昭和3年(1928年)9月4日の岩手日報には、盛岡市呉服町にあった洋品店「オゾザワ呉服町支店」の広告が掲載されている。「秋冬洋服均一注文(特価的薄利計画)」と題され、燕尾服(エンビ服)、モーニングコート、フロックコートといった礼装がずらりと並ぶ。 たとえば価格は、燕尾服が75円より95円、フロックコ… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 2 9月 1928 黄金競馬場で秋競馬(S3.9.2岩手日報) 昭和3年9月、盛岡市の黄金競馬場では秋の競馬が開催され、曇天ながら雨に降られることのない穏やかな天候のもと、一日が静かに過ぎていった。 現在の岩手大学工学部周辺にあたるこの場所には、かつて「黄金競馬場」という馬場が存在し、昭和初期には競馬が年に数度行われていたという。新聞報道によれば、この日の秋競馬… 続きを読む
l全県 1 9月 1928 イチジク浣腸は1円50銭(S3.9.1岩手日報) 昭和3年9月1日の岩手日報より。 広告欄に掲載されているのは、当時まだ新興企業だった「東京軽便浣腸製造所」による製品、「イチジク印軽便浣腸」。着物姿の母親が子どもに浣腸を施す印象的な図柄が目を引く。 この「イチジク浣腸」は、1925年(大正14年)に医師・田村廿三郎によって製造が開始されたもので、翌… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 16 3月 1927 女子師範学校の卒業生が岩手日報社を見学(S2.3.16岩手日報) 昭和2年3月16日の岩手日報より。 当時、盛岡市内丸にあった岩手女子師範学校の卒業生たちが、岩手日報社を見学したときの一枚である。引率は堀江・新藤の両教諭、訪問は午後3時に実施された。 この日、見学に訪れたのは卒業生70余名。一行は整然と社内に入り、新聞制作の現場を興味深く見学した。写真には、袴姿の… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 13 1月 1927 盛岡で流行性感冒が大はやり(S2.1.13岩手日報) 昭和2年の年明け早々、盛岡では流行性感冒(いわゆる流感)が急速に拡大し、市内の医療機関が慌ただしさを増していた。市民の間でも不安が広がり、新聞紙上では予防と対策の重要性が呼びかけられている。 この流感について、当時の岩手病院内科部長は次のように語っている。 「死亡率は非常に低いが、悪性で注意を要する… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 9 1月 1927 盛岡の「昭和っ子」が6日までに24人(S2.1.9岩手日報) 大正天皇の崩御にともない、昭和元年が始まったのは1926年12月25日。いわゆる「諒闇(りょうあん)」の中に幕を開けた新時代でしたが、その静かな幕開けのなかでも、盛岡市内ではすでに24人の新生児が誕生していたことが、昭和2年1月9日付の『岩手日報』で報じられています。 その24人のうち、12月26日… 続きを読む
f花巻・稗貫郡 8 1月 1927 不景気で酒の捨て売り(S2.1.8岩手日報) 昭和2年1月8日の岩手日報には、正月らしからぬ静けさに包まれた街の様子が描かれています。とりわけ打撃を受けたのが、例年であれば“書き入れ時”となるはずの酒屋でした。 本来であれば、新年の祝いや帰省客の接待で賑わい、注文が殺到するはずの酒屋。しかし、この年は事情がまったく違っていました。 背景には二つ… 続きを読む
i一関・西磐井郡 5 1月 1927 刑務所の看守が生活苦から身投げを図る 昭和2年1月7日の岩手日報より。 宮城刑務所一関支所の37歳の看守は、1月5日夜に突然家出して一関区裁判所の裏の大川に身投げしたが、水深が浅く巡査に引き上げられ究明措置を取られたのだという。 家族は妻の他に3人の子供があり、その妻は4人目を妊娠中であったという。 自殺を企図した原因は、生活苦と神経衰… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 2 1月 1927 盛岡刑務所の元旦は?(昭和2年1月2日) 昭和2年1月2日の岩手日報では、盛岡刑務所まで取材に行ってその様子を伝えている。 盛岡刑務所では、諒闇の中でも1月3日まで特別な処遇をし、教誨室に集まって教誨師から説諭があったという。 警務当事者のコメントでは「一同謹慎の意を示し悲愁の意を呈していた」とのこと。 … 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 1 1月 1927 昭和初めての元朝参りは大賑わい(昭和2年1月1日) 昭和で初めてとなる元朝参りは、例年より大賑わいだったようで、盛岡八幡宮では1万人の人出であったという。 昭和2年1月4日の岩手日報より。 昭和2年に日が変わった2時頃には降雨があったようで人混みは一時期絶えたようである。 各神社のお賽銭は以下の通り。 盛岡八幡宮 170円 桜山神社 90円 招魂社 … 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 29 12月 1926 諒闇や改元どころではない紫波郡の干害に、在京の県出身学生が木炭廉売(昭和元年12月29日) 昭和元年12月29日の東京朝日新聞より。 紫波郡と東西磐井郡では1万町歩にわたる干害が発生し、28か村5万人が作物全滅という惨状であったという。 それでヒエや麦で食いつないでいたところ、昭和に元号が代わる頃にはそれすら無くなりつつある状況となっていたという。 そこで、在京の県出身学生は、県の名産物で… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 28 12月 1926 諒闇の中、盛岡・中の橋通りに食堂がオープン(S元.12.28岩手日報) 昭和元年12月28日付の『岩手日報』には、盛岡の中の橋通りに開業したばかりの「カフェー大安」の広告が掲載されている。これによると、もともとは「大安」という店舗の一部として「食堂部」が営業していたが、このたびその食堂部のみを独立させ、「カフェー大安」として開店する運びとなったようである。 広告には、以… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 26 12月 1926 花巻の小学生「紫波の旱魃を救おう!」「お米を集めて持っていこう!」5里を歩いて米を届ける(S元.12.26岩手日報) 昭和元年、岩手県紫波郡では深刻な旱魃(干害)が発生し、農作物に甚大な被害が出た。この災害は新聞などでも広く報じられ、県内外から支援と同情の声が寄せられていた。 そうした中、花巻市湯本地区(当時の稗貫郡湯本村)の湯本尋常高等小学校では、赤十字少年団に所属する5人の児童が「自分たちにもできることを」と考… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 26 12月 1926 川徳呉服店「肴町では聯合歳の市をやってますよ!」(S元.12.26岩手日報) 昭和元年(1926年)12月26日の『岩手日報』紙面には、盛岡・肴町で開かれていた「聯合歳の市」の広告が掲載されている。当時の川徳呉服店を中心に、肴町の商店が一体となって年末年始のセールを展開していた様子が伝わってくる。 広告には「十八日より新年三日まで」と右書きで記されており、12月18日から正月… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 11 12月 1926 吹雪の中、飯岡尋常高等小学校生徒が村社で大正天皇の平癒祈願(大正15年12月11日) 肺炎で臥せっていた聖上(大正天皇)の御容態は、毎日このように新聞で報道されていた。 国民はこぞって聖上の平癒祈願を行っていた。 紫波郡飯岡村の飯岡尋常高等小学校生徒四百数十名は、吹雪の中を校長に引率され村社である秋葉神社で平癒祈願を行ったという。 … 続きを読む