b二戸・二戸郡 1 9月 1928 二戸郡では養豚に代わりウサギの飼養が盛んに(S3.9.1岩手日報) かつて養豚が盛んだった岩手県二戸郡では、近年その様子が変わりつつある。記事によれば、従来は毎年約2,000頭の豚が飼育されていたというが、昭和3年当時、豚肉価格の低迷や飼料品の不足を背景に、飼育戸数は次第に減少。代わって注目されたのがウサギの飼育であった。 ウサギは手狭な場所でも飼えることに加え、飼… 続きを読む
d宮古・下閉伊郡 8 4月 1928 全校児童の3分の1を落第させる小学校 昭和3年4月8日の東京朝日新聞より。 川井村小学校では全校210人の3分の1の70名を成績が悪いといって落第させたら父兄が怒って盛岡の県庁まで押しかけたのだという。 しかし学校側は「成績が悪いんだから仕方がない」の一点張り。 ・・・ところで、山田線はこの時点では上米内までしか開業してい… 続きを読む
d宮古・下閉伊郡 8 10月 1927 サンマの季節の貨物列車 微妙に岩手のニュースではないニュース。 昭和2年10月8日の読売新聞より。 茨城県大洗のさんま偵察船「茨城丸」は、岩手県の宮古沖にサンマの大群を発見し、それを無線で大洗の漁民に伝えた結果、大洗の漁民は近年に無い大漁を記録することに。 そうなると、大消費地である東京に運ぶ計画を立てなければならないとい… 続きを読む
i一関・西磐井郡 14 7月 1927 平泉・毛越寺で国宝を盗んだまではよかったが、いや良くないが 昭和2年7月14日の東京朝日新聞・読売新聞より。 前年の大正15年9月、平泉・毛越寺から国宝数点が盗み出された。 藤原秀衡納「仏説宝網経」 釈尊直使「乱蛇体」 大原實守作名刀 運慶作仏像「毘沙門天」 玉手箱 これらは合計で当時の価格にして5~60万円相当の者であったという。 それで、岩手県警察部では… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 22 4月 1927 盛岡・内丸座で「広瀬中佐」「幻の賊」「アイアンホース」「勝てば官軍」を公開(S2.4.22岩手日報) 昭和2年4月22日の岩手日報より。 盛岡の映画館・内丸座では、この日から豪華な四本立て上映が行われた。戦争の英雄譚から西部劇、捕物、歴史劇まで揃ったそのラインナップは、まさに昭和初期の映画興行の活気を象徴するものであった。 『広瀬中佐』は松竹キネマ蒲田撮影所で製作され、大正15年(1926年)6月2… 続きを読む
h水沢・江刺・胆沢郡 10 4月 1927 江刺郡伊手村の爆殺事件(S2.4.10) 昭和2年4月10日、岩手県江刺郡伊手村上浅倉(現在の奥州市江刺伊手字上浅倉)で、農夫がダイナマイトの爆発により右足を損傷し、破傷風を併発して死亡しました。この事件は、被害者(当時35歳)の義兄(当時44歳)が家庭内の冷遇や不和から殺意を抱き、計画的にダイナマイトを仕掛けた結果発生したものです。 義兄… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 16 3月 1927 盛岡高等農林学校の卒業式(S2.3.16岩手日報) 昭和2年(1927年)3月、岩手県の最高学府として知られた盛岡高等農林学校で卒業式が行われた。『岩手日報』紙上には、教員と卒業生たちの記念写真が掲載され、厳かな式典の様子が伝えられている。 この学校は、旧制時代における農林系の専門教育機関であり、農政技術者や教員、研究者など多くの人材を世に送り出して… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 16 3月 1927 女子師範学校の卒業生が岩手日報社を見学(S2.3.16岩手日報) 昭和2年3月16日の岩手日報より。 当時、盛岡市内丸にあった岩手女子師範学校の卒業生たちが、岩手日報社を見学したときの一枚である。引率は堀江・新藤の両教諭、訪問は午後3時に実施された。 この日、見学に訪れたのは卒業生70余名。一行は整然と社内に入り、新聞制作の現場を興味深く見学した。写真には、袴姿の… 続きを読む
l全県 16 3月 1927 県下各校の配属将校が決定(S2.3.16岩手日報) 昭和2年3月16日の『岩手日報』より。 この時代、岩手県内の旧制中学校や高等女学校、実業学校などには「配属将校」と呼ばれる軍人が派遣されていた。これは学校での軍事教練や思想教育の一環として、陸軍省が制度化していたものである。 この日の新聞には、岩手県下の各校に新たに配属される将校の人選が決定したとい… 続きを読む
l全県 15 3月 1927 山陰大震災に岩手県内でも義捐金募集(S2.3.15岩手日報) 昭和2年3月7日に発生した「山陰大震災」——現在でいう「北丹後地震」に対し、岩手県内でも義捐金を募る動きが広がった。 同月15日付の『岩手日報』には、被災地支援のための義捐金募集広告が大きく掲載されている。 「亡くし難き眷族を失ひ、愛児を喪ひ、親夫に別れ、住む家なく食ふに飢え、寒さと飢と恐怖と戦ひ…… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 29 1月 1927 一方井事件(S2.1.29) 昭和2年(1927年)1月29日、岩手県岩手郡一方井村(現岩手町一方井)で発生した火災により男性が焼死しました。当初は事故死と判断されましたが、石油の臭いや頭部の裂傷から他殺の可能性が浮上しました。その後、この事件は天理教を背景にした複数の不審死を伴う猟奇的な犯罪へと発展しました。 火災後、昭和2年… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 13 1月 1927 盛岡で流行性感冒が大はやり(S2.1.13岩手日報) 昭和2年の年明け早々、盛岡では流行性感冒(いわゆる流感)が急速に拡大し、市内の医療機関が慌ただしさを増していた。市民の間でも不安が広がり、新聞紙上では予防と対策の重要性が呼びかけられている。 この流感について、当時の岩手病院内科部長は次のように語っている。 「死亡率は非常に低いが、悪性で注意を要する… 続きを読む
l全県 9 1月 1927 警察電話も寸断されるような暴風雪(S2.1.9岩手日報) 昭和2年1月8日、岩手県内は冬型の気圧配置の影響で猛烈な暴風雪に見舞われた。各地で家屋の倒壊や倒木、電線の切断が相次ぎ、交通や通信に甚大な影響を及ぼした。 なかでも深刻だったのは、県内の警察電話が全面的に不通となってしまったことである。記事によれば、「復旧までには十日を要す」との見通しが出されており… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 9 1月 1927 盛岡~宮古は冬でも自動車で郵便を運びますよ!(S2.1.9岩手日報) 昭和2年1月、岩手日報は「盛岡~宮古間の冬季郵便逓送を自動車で継続すべく、逓信局と交渉中である」と報じた。実はこの区間、すでに大正14年からは「盛宮自動車」による郵便輸送が始まっていたが、冬場は例年通り積雪のため運休し、郵便物は駄馬によって雪道を越えて運ばれていたという。 この「雪道」とは、すなわち… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 9 1月 1927 盛岡の「昭和っ子」が6日までに24人(S2.1.9岩手日報) 大正天皇の崩御にともない、昭和元年が始まったのは1926年12月25日。いわゆる「諒闇(りょうあん)」の中に幕を開けた新時代でしたが、その静かな幕開けのなかでも、盛岡市内ではすでに24人の新生児が誕生していたことが、昭和2年1月9日付の『岩手日報』で報じられています。 その24人のうち、12月26日… 続きを読む
f花巻・稗貫郡 8 1月 1927 不景気で酒の捨て売り(S2.1.8岩手日報) 昭和2年1月8日の岩手日報には、正月らしからぬ静けさに包まれた街の様子が描かれています。とりわけ打撃を受けたのが、例年であれば“書き入れ時”となるはずの酒屋でした。 本来であれば、新年の祝いや帰省客の接待で賑わい、注文が殺到するはずの酒屋。しかし、この年は事情がまったく違っていました。 背景には二つ… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 8 1月 1927 入営兵の見送りで賑わう盛岡駅(S2.1.8岩手日報) 昭和2年1月8日の岩手日報より。 この日の盛岡駅は、朝から見送り客でごった返していた。向かう先は、弘前の歩兵連隊。現役兵として入営する若者たちを見送るため、家族や友人たちがホームに詰めかけていた。 写真に写るのはその一幕。列車の窓越しに帽子を振る者、最後の言葉を交わそうとする者、それをただ黙って見つ… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 7 1月 1927 盛岡駅の入営兵見送りを1人あたり20人までに制限(昭和2年1月7日) 昭和2年1月7日の岩手日報より。 例年、徴兵で入営する際にはお見送りの人で盛岡駅のホームがごった返していたようで危険極まりない状態だったようである。 それで、盛岡駅では入営者が最も多いことが予想される8日の9:23と11:42発の急行列車は、入営者1名につき20名までしか入場券を売らないことにしたと… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 7 1月 1927 内丸座で「カラボタン」「ロイドの初恋」公開! 昭和2年1月7日の岩手日報より。 この日から盛岡の内丸座では「カラボタン」「ロイドの初恋」など複数作品の公開が始まった。 「カラボタン」は1926年(大正15年)8月30日に松竹キネマ蒲田撮影所で製作された無声映画で、監督は野村芳亭。主演は諸口十九と筑波雪子。脚本は野村芳亭と村上徳三郎、原作は柴田端… 続きを読む
f花巻・稗貫郡 7 1月 1927 農家の売り惜しみで米が出回らず 昭和2年1月7日の岩手日報より。 花巻の米穀商は新年を迎えて忙しいが、農家の方は1駄20円から1駄30円を夢見て売り惜しみをしているのだという。 それで、穀物検査所では移出検査が2割程度減っているのだという。 しかし、年末は田舎では相当金が必要になるだろうから20日には出回るだろうという予測であった… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 6 1月 1927 貨車の連結手は危険な仕事だった(S2.1.8岩手日報) 昭和2年1月8日の岩手日報に、盛岡駅構内で発生した痛ましい鉄道事故が報じられています。 事故が起きたのは、盛岡駅の北側に位置する貨物列車の入換線でのことでした。まだ19歳という若さの連結手が、10両編成の貨車に飛び乗ろうとした際、厳寒の気候が災いし、足を滑らせて線路上に転倒してしまいました。不運なこ… 続きを読む
i一関・西磐井郡 5 1月 1927 刑務所の看守が生活苦から身投げを図る 昭和2年1月7日の岩手日報より。 宮城刑務所一関支所の37歳の看守は、1月5日夜に突然家出して一関区裁判所の裏の大川に身投げしたが、水深が浅く巡査に引き上げられ究明措置を取られたのだという。 家族は妻の他に3人の子供があり、その妻は4人目を妊娠中であったという。 自殺を企図した原因は、生活苦と神経衰… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 4 1月 1927 陸軍始めの観兵式は中止(昭和2年1月4日) 昭和2年1月4日の岩手日報より。 毎年1月8日には「陸軍始め」として観武ヶ原の騎兵第三旅団では観兵式を行っていたようだが、この年は大正天皇崩御による諒闇のため中止とのことであった。 … 続きを読む
l全県 4 1月 1927 諒闇でも講談社の広告は元気(S2.1.4岩手日報) 昭和2年正月――前年末に大正天皇が崩御し、日本全体が厳粛な空気に包まれていたはずの時期である。新聞紙面も「諒闇」(りょうあん)として華美を避ける風潮が一般的だった。 ところが、そうした空気をまるで意に介さないような広告が、昭和2年1月4日付『岩手日報』朝刊に掲載された。発信元は、大日本雄弁会講談社。… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 2 1月 1927 盛岡刑務所の元旦は?(昭和2年1月2日) 昭和2年1月2日の岩手日報では、盛岡刑務所まで取材に行ってその様子を伝えている。 盛岡刑務所では、諒闇の中でも1月3日まで特別な処遇をし、教誨室に集まって教誨師から説諭があったという。 警務当事者のコメントでは「一同謹慎の意を示し悲愁の意を呈していた」とのこと。 … 続きを読む
l全県 1 1月 1927 昭和2年の元旦は「諒闇奉悼」(S2.1.1岩手日報) 昭和2年(1927年)1月1日の岩手日報―― その元日号は、私たちがよく知る「新年の新聞」とはまったく趣を異にしています。 前年12月25日、大正天皇が崩御され、ただちに昭和と改元。新天皇・裕仁親王の践祚により、新しい時代が始まりました。 しかし、宮中では深い哀悼の意を表す「諒闇(りょうあん)」の期… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 1 1月 1927 昭和初めての元朝参りは大賑わい(昭和2年1月1日) 昭和で初めてとなる元朝参りは、例年より大賑わいだったようで、盛岡八幡宮では1万人の人出であったという。 昭和2年1月4日の岩手日報より。 昭和2年に日が変わった2時頃には降雨があったようで人混みは一時期絶えたようである。 各神社のお賽銭は以下の通り。 盛岡八幡宮 170円 桜山神社 90円 招魂社 … 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 31 12月 1926 盛岡・内丸座で「蜘蛛」「腕鳴り肉躍る」「母よ恋し」「讐討乙女椿」初春特別大公開!(S元.12.31岩手日報) 大正天皇の崩御により、その翌日である昭和元年12月26日から5日間の歌舞音曲の禁止が警察から発令された。 昭和元年12月31日の岩手日報より。 大正天皇の崩御に伴って禁じられていた歌舞音曲の禁止がこの日ようやく解かれ、盛岡の内丸座ではすぐさま正月映画の特別興行が始まった。上映されたのは邦画と洋画の取… 続きを読む
m県外・参考 29 12月 1926 新帝陛下が初の東京御帰還(S元.12.29岩手日報) 昭和元年12月29日付の岩手日報には、葉山から東京駅に御帰還あそばされた新帝・裕仁陛下の御模様が、厳かに報じられている。写真には、東京駅のホームに御召し列車が到着し、関係者が深々と頭を垂れて陛下をお迎えする光景が映されている。厳寒の空気の中、昭和の御代の始まりを象徴する静謐な一瞬である。 陛下が葉山… 続きを読む
l全県 29 12月 1926 昭和元年の岩手日報は今日で最後です(S元.12.29岩手日報) 昭和元年十二月二十九日の『岩手日報』には、簡潔な一文が載っていた。 お断り 本日の本紙を以て本年の終刊と致します この年の十二月二十五日、大正天皇が崩御し、改元されて間もない時期である。昭和という元号はすでに用いられているが、世は「諒闇」の期間中にあった。新聞や雑誌、広告、演芸、映画なども相次いで自… 続きを読む