e釜石・遠野・上閉伊郡 7月 1日 1965 釜石製鉄所で異動のあった3課長はみな東大卒(S40.7.1岩手東海新聞) 釜石製鉄所で人事異動があり、秘書課長兼人事課長(39歳)、整員課長(37歳)、労働課長心得(35歳)はみな東大卒だった。 そして顔写真入りで紹介された時代。… 続きを読む
e釜石・遠野・上閉伊郡 7月 1日 1965 釜石製鉄所構内で安全パレード(昭和40年7月1日) 昭和40年7月2日の岩手東海新聞より。 釜石製鉄所の構内では、雷雨の中を作業安全パレードが行われたようである。 どうも手前のマイクロバスは、県南バスから借りてきたような色にも思えるが、ナンバーが白なので自家用だろうか。 … 続きを読む
e釜石・遠野・上閉伊郡 7月 1日 1965 釜石魚市場でイカの樽詰め出荷始まる(昭和40年7月1日) 昭和40年7月1日の岩手東海新聞より。 釜石魚市場で、イカの樽詰め出荷が始まったことを報じている。 … 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 4月 2日 1965 盛岡専門店街では梓みちよショウ大売り出し(昭和40年4月2日) 昭和40年4月2日の岩手日報より。 「こんにちは赤ちゃん」で一躍スターダムにのし上がった梓みちよのショーに招待するという大売り出しが盛岡専門店会で展開された。 … 続きを読む
g北上・和賀郡 4月 2日 1965 誘致した工場の子弟は越境入学させる問題(S40.4.2岩手日報) 北上市はパルプ工場を誘致できたは良かった。 しかし、それは北上市と金ヶ崎町の中間地点だった。 なおかつ、社宅は金ヶ崎町側にあった。 従業員組合は、子弟を北上市側の学校に通わせることを要求する。 なんとそれが通ってしまっていたのだ。 … 続きを読む
l全県 4月 2日 1965 全逓が超勤拒否で郵便物に影響か(S40.4.2岩手日報) この頃の全逓は「戦う労組」だった。 この時も超勤拒否闘争で給与体系の不均衡を改正させようとしていた。 … 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 4月 1日 1965 盛岡でタクシーの「流し」を許可の方向へ(昭和40年4月1日) 昭和40年4月1日の岩手日報より。 この当時、タクシーの「流し」は認められていなかった。 タクシーは営業所から乗せるか、あるいは電話で行くしかなかった。 しかし、この月の下旬からそれを認める方向で調整中であったと言う。… 続きを読む
l全県 4月 1日 1965 今年は天明以来の飢饉?(昭和40年4月1日) 昭和40年4月1日の岩手日報より。 この年は、天候が異常で「天明以来の飢饉になるのではないか」と恐れられていた。… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 4月 1日 1965 乳児死亡率ゼロのためには医師不足の解決も必要(昭和40年4月1日) 昭和40年4月1日の岩手日報より。 この時期、岩手県の乳児死亡率は全国最悪レベルで、社会問題となっていた。 そのためには、色々な問題があったが、ここでは医師の問題を取り上げている。 岩手医大でも、医師不足になる構造的問題があった。… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 4月 1日 1965 岩手県内の小学1年生は2万8千人(昭和40年4月1日) 昭和40年4月1日の岩手日報より。 この年の岩手県内の小学1年生は、2万8千人であったという。 ちなみに、令和4年(2022年)の岩手県内の小学1年生は、8,464人であるという。(岩手県教育統計より) ちなみに写真は盛岡の中野小学校。 … 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 4月 1日 1965 昭和45年の国体開催は青森が岩手に譲歩(昭和40年4月1日) 昭和40年4月1日の岩手日報より。 昭和45年の国体をどこで開催するか。 東北6件ブロック協議会では、青森が岩手に譲歩する形となった。 これで、「昭和45年岩手国体」が開催されることになったのである。 … 続きを読む
f花巻・稗貫郡 4月 1日 1965 花巻空港開港1周年を開港1周年を迎えて(昭和40年4月1日) 昭和40年4月1日の岩手日報より。 花巻空港は開港1周年を迎えた。 とは言っても、まだまだ庶民の足ではなかった。 … 続きを読む
e釜石・遠野・上閉伊郡 3月 5日 1965 釜石に丸光デパートの出現で商店街は微妙な表情(昭和40年3月5日) 昭和40年3月5日の岩手東海新聞より。 釜石に、仙台を本店とする丸光デパートが出現し、既存の商店街は微妙な表情になっている。 … 続きを読む
e釜石・遠野・上閉伊郡 3月 4日 1965 大槌町赤浜にオットセイ研究所(昭和40年3月4日) 昭和40年3月4日の岩手東海新聞より。 大槌町赤浜にオットセイ研究所が完成した。 これは、大槌町の予算で建設し、水産庁東海区水産研究所に貸し与えたもの。 … 続きを読む
e釜石・遠野・上閉伊郡 3月 3日 1965 釜石市の失対事業で呑んべ横丁も舗装へ(昭和40年3月3日) 昭和40年3月3日の岩手東海新聞より。 釜石市は、失対事業として、各地の道路舗装することにした。 その中には、製鉄所の近くののんべ横丁も入っていた。 … 続きを読む
e釜石・遠野・上閉伊郡 3月 2日 1965 「釜鉄タワー」の建設始まる(昭和40年3月2日) 昭和40年3月2日の岩手東海新聞より。 当時の釜石のシンボルと言えば、釜石製鉄所の5本煙突であったが、その他に、転炉を建設するために駅前にタワーを建設することになったのである。… 続きを読む
e釜石・遠野・上閉伊郡 3月 1日 1965 釜石・大平公民館が近日完成(昭和40年3月1日) 昭和40年3月1日の岩手東海新聞より。 釜石の大平公民館が3月7日に竣工するという。 大平というと、釜石駅の南側の釜石大観音がある方だが、こちらの方にも社宅が並んでいたらしい。 … 続きを読む
e釜石・遠野・上閉伊郡 12月 2日 1964 大槌町では新巻鮭の最盛期(昭和39年12月2日) 昭和39年12月2日の岩手日報より。 南部鼻曲がり鮭で知られる大槌町では、新年に向けて新巻鮭の最盛期となっていた。 … 続きを読む
m県外・参考 11月 26日 1964 岩手でも報じられた長嶋選手婚約(昭和39年11月26日) 昭和39年11月26日の岩手日報より。 巨人軍の長嶋選手の婚約は、岩手でも報じられていた。 … 続きを読む
e釜石・遠野・上閉伊郡 9月 10日 1964 大槌漁港埋立地の利用計画(昭和39年9月10日) 昭和39年9月10日の岩手東海新聞より。 大槌漁港の埋立地は、使用計画がまるで定まっていなかったが、このほど、水産センター等の建設が決まったのだと言う。 … 続きを読む
e釜石・遠野・上閉伊郡 9月 4日 1964 釜石から東海製鉄に2300人が転出(s39.9.5岩手東海新聞) この時期、釜石から東海製鉄への転出が相次いでいた。 この時は2300人だったという。 これが釜石の「終わりの始まり」。… 続きを読む
e釜石・遠野・上閉伊郡 9月 3日 1964 いよいよ東海製鉄の一高炉火入れへ(S39.9.3岩手東海新聞) 東洋一と言われたビッグプロジェクトの東海製鉄の一高炉の火入れが9月5日に迫っていた。 釜石製鉄所からは700人の従業員が転出していたという。… 続きを読む
e釜石・遠野・上閉伊郡 9月 2日 1964 釜石製鉄所では社線撤去に向けた諸工事(S39.9.2岩手東海新聞) 釜石では、昭和25年の時点で釜石線が釜石鉱山からの「社線」に並行して開業していたが、釜石鉱山からの鉄鉱石輸送がすぐに釜石線に移行したわけではなかった。 そして、自動車が増えてからは道路交通の邪魔となっていた。 しかし、やっとのことで撤去の運びとなりそれに向けた工事が進んでいた。 … 続きを読む
e釜石・遠野・上閉伊郡 9月 1日 1964 いよいよサンマ漁第3次解禁(昭和39年9月1日) 昭和39年9月1日の岩手東海新聞より。 三陸沿岸では、サンマ漁の解禁に沸き立っていた。 サンマ漁の漁場は、釧路の南東側になるのではないかと県水産試験場によって予想されていた。 … 続きを読む