皇室

天皇陛下崩御・昭和最後の日(昭和64年1月7日) j生活

天皇陛下崩御・昭和最後の日(昭和64年1月7日)

昭和最後の日のことは個人的な思い出で。 https://www.youtube.com/watch?v=wO8F211cQOk 確かもう盛岡で中学生になっていた。 1月7日なので、岩手県だとまだ冬休みである。 前年から毎日毎日脈拍と下血のニュースばかりやっており、何かと言えば自粛ムードだった。 そし…
松尾村で全国育樹祭(S59.10.15) a盛岡・岩手郡・紫波郡

松尾村で全国育樹祭(S59.10.15)

第8回全国育樹祭は、昭和59年10月15日に岩手県松尾村で皇太子ご夫妻を迎え、約9,000人が参加して開催されました。式典では、10年前の全国植樹祭で植えられた南部赤松の手入れが行われ、参加者全員が緑豊かな郷土づくりを誓いました。皇太子殿下は「緑に力を未来に夢を」というテーマを掲げ、全国の森林管理の…
江刺在住の正田家で奉公したことがある女性が皇太子妃美智子さまを語る(昭和34年4月12日) h水沢・江刺・胆沢郡

江刺在住の正田家で奉公したことがある女性が皇太子妃美智子さまを語る(昭和34年4月12日)

昭和34年4月12日の岩手民声新聞より。 このほどご成婚された皇太子妃美智子さまが正田家におられた頃、正田家で子守りをしていた女性が江刺市内に在住しているという。 それは江刺市玉里の亜炭鉱山で夫と3男1女と暮らしている36歳の女性。 宮城県生まれで、戦時中の19歳の時に兄の知人の世話で正田家に奉公す…
一関市は皇太子殿下のご成婚に何の祝賀行事もしないとは(昭和34年4月11日) i一関・西磐井郡

一関市は皇太子殿下のご成婚に何の祝賀行事もしないとは(昭和34年4月11日)

昭和34年4月11日の岩手報知より。 前日、皇太子殿下のご成婚があり、全国挙げての祝賀ムードだった。 しかし、一関市は特段の祝賀行事は行わなかったようである。 岩手報知新聞はこのことに対し、以下のように憤りを隠さない筆鋒で批判する。 ところで一関市の場合は慶祝的な行事は華道展位なものでその他は商魂た…
皇太子殿下ご成婚にあやかろうと4月10日は一関八幡神社では結婚式が10組も(昭和34年4月10日) i一関・西磐井郡

皇太子殿下ご成婚にあやかろうと4月10日は一関八幡神社では結婚式が10組も(昭和34年4月10日)

昭和34年3月30日の岩手報知より。 この年の4月10日には皇太子殿下のご成婚が予定されており、全国的に結婚ブームとなっていた。 一関でもその例にもれなかったようで、市内の一関八幡神社ではこの日に結婚式を予定しているのが10組、山目配志和神社では7組も申し込みがあった。 市内のデパートでも「ミッチー…
皇太子殿下の御成婚を控え、街は「日の丸」ブーム(昭和34年4月5日) a盛岡・岩手郡・紫波郡

皇太子殿下の御成婚を控え、街は「日の丸」ブーム(昭和34年4月5日)

昭和34年4月5日の河北新報より。 敗戦してからというもの、「日の丸」の国旗は日陰者のような存在であったそうな。 しかし、皇太子殿下の御成婚では盛岡市内の染物屋に商工会議所などから注文が舞い込み、街の家々に日の丸が翻るのだとか。 盛岡市内の商店主は、「この日の丸ブームは大正天皇の御大典の半分ぐらい、…
盛岡・東宝第一劇場で「弥次喜多道中双六」「おめでとう皇太子さま」公開!(昭和33年12月14日) a盛岡・岩手郡・紫波郡

盛岡・東宝第一劇場で「弥次喜多道中双六」「おめでとう皇太子さま」公開!(昭和33年12月14日)

昭和33年12月13日の岩手日報の広告欄より。 盛岡・東宝第一劇場では「弥次喜多道中双六」と「おめでとう皇太子さま」を12月14日に公開するという。 「弥次喜多道中双六」は昭和33年12月7日の公開で、弥次喜多が大井川を渡り京へ着くまでを描く。 また、「おめでとう皇太子さま」も昭和33年12月7日の…
改良「無煙かまど」で仁徳天皇の故事は古くなりました!(昭和32年8月15日) h水沢・江刺・胆沢郡

改良「無煙かまど」で仁徳天皇の故事は古くなりました!(昭和32年8月15日)

昭和32年8月15日の岩手民声新聞の広告欄より。 この時期は電気炊飯器など一般的ではなかった時期なので、普通にかまどが広告を出している。 これは無煙かまどだそうで、いわく「仁徳天皇の故事も古くなりました」という。 仁徳天皇の故事とは? それは、仁徳天皇が町を見渡すと家々のかまどから煙が立っていない。…
三笠宮殿下が松尾鉱山をご見学(昭和29年9月17日) a盛岡・岩手郡・紫波郡

三笠宮殿下が松尾鉱山をご見学(昭和29年9月17日)

昭和29年9月18日の岩手日報より。 青森など各地を回っていた三笠宮殿下は、9月17日にまた岩手にご来県し、松尾鉱山などを見学された。 そればかりではなく「岩手の学校では、他の県と違って気をつけとか敬礼の号令が非常に多く堅苦しく感じた」と苦言をていされたのであった。  …
ノモンハン事件で戦死した釜石市出身勇士の遺族に皇后陛下が御下賜品(昭和17年1月24日) a盛岡・岩手郡・紫波郡

ノモンハン事件で戦死した釜石市出身勇士の遺族に皇后陛下が御下賜品(昭和17年1月24日)

昭和17年1月15日の岩手日報より。 満蒙国境で展開されたノモンハン事件で戦死した日本兵は7000人とも9000人ともいわれている。 この戦死者に対し、釜石市出身者遺族に1月24日、盛岡の県庁本庁舎で御菓子と御歌複本の伝達式が行われるという。 対象者は14名であった。     &…
盛岡から東京までの130里を自転車で踏破しよう(S14.7.1新岩手日報) a盛岡・岩手郡・紫波郡

盛岡から東京までの130里を自転車で踏破しよう(S14.7.1新岩手日報)

盛岡から東京までの130里を自転車で踏破して、明治天皇の東北巡幸の足跡をたどるという気宇壮大なツアーが開催されるという。 7月18日に三日間かけて東京に到着して、帰りは2日で済ませているようだが、これは列車か何かで帰ると言うことをだろうか。  …
明治神宮で賽銭泥という不敬を働いた男の親は・・・ e釜石・遠野・上閉伊郡

明治神宮で賽銭泥という不敬を働いた男の親は・・・

明治神宮は明治天皇を祭る畏き神域。 その明治神宮で賽銭泥棒という大それた不敬をしでかした30歳の男は、岩手県のどこだかの街の出身だった。 郷里に住むその男の父親だけでなく、その町の町長までが東京に出て明治神宮でお詫び行脚である。 明治神宮の神域で不敬を働くということは、それほどの大それたことであった…
川徳では春の呉服・雑貨大売出し! a盛岡・岩手郡・紫波郡

川徳では春の呉服・雑貨大売出し!

昭和8年3月4日の岩手日報より。 前日に発生した三陸大津波に際し、「畏き辺り」つまり天皇陛下(というか宮内省なんだろうけど)は被害を「痛く御軫念あらせられ」、昭和2年の北丹後地震の時と同様、侍従を被災地にお差遣することとした、というニュース。 そのわきでは盛岡の川徳が「春の呉服・雑貨大売出し」の広告…
諒闇でも講談社の広告は元気 l全県

諒闇でも講談社の広告は元気

大日本雄弁会講談社の広告は押しの強さで知られるところ。 https://twitter.com/oldpicture1900/status/1448500002876133376?s=21   それは大正天皇の崩御による諒闇の中でも例外ではなかった。 昭和2年1月4日の岩手日報ではこんな調…
新帝陛下が初の東京御帰還(昭和元年12月29日) m県外・参考

新帝陛下が初の東京御帰還(昭和元年12月29日)

新帝となられた裕仁陛下におかれては、葉山御用邸から御召し列車で東京駅に御帰還される。 昭和元年12月29日の岩手日報に掲載されたもの。 当時であれば電送写真も無かったと思うので郵送されたものだろうか。 また、当時であれば機関車は18900(昭和3年以降はC51)であっただろうか。   &n…
大正天皇崩御の喪中は岩手日報主催・講演の催しは自粛します!(昭和元年12月29日) a盛岡・岩手郡・紫波郡

大正天皇崩御の喪中は岩手日報主催・講演の催しは自粛します!(昭和元年12月29日)

昭和元年12月29日の岩手日報より。 大正天皇の崩御による第1期喪中(50日間)は、岩手日報で講演する催し物を一切「ご遠慮」することにしたのだという。 「恒例によるもの」という表現の仕方がよく分からないが、以下の行事は自粛しますということ? それとも「他の催しは自粛視点もこれだけは恒例通り行います」…