備考※1 2月 26日 1982 【参考】中国残留孤児が来日し肉親探し(S57.2.26) 中国残留孤児が来日して、肉親探しの旅をしたという。 そういえばこの当時は「黒竜江省」「遼寧省」といったワードが多く放送されていた。 https://youtu.be/bYOZgDbGG8M… 続きを読む
備考※1 3月 27日 1981 【参考】中国残留孤児、祖国へ(S56.3.27中日ニュース) 管理人が子供の頃は、ニュースからやたらと「黒竜江省」「遼寧省」などの中国の省名が連呼された者だった。 https://youtu.be/fQXIPKyGxSo?si=KXCjHtfIAGLnti6R … 続きを読む
備考※1 3月 16日 1973 【参考】日本の歩み(S48.3.16中日ニュース) 終戦から昭和48年当時までの日本の歩み。 https://m.youtube.com/watch?embeds_referring_euri=https%3A%2F%2Fchunichieigasha.co.jp%2F&source_ve_path=MTY0NTAz&feature=… 続きを読む
h水沢・江刺・胆沢郡 12月 7日 1961 水沢の神社の屋根裏からピストルと銃弾を発見(昭和36年12月7日) 昭和36年12月11日の胆江日日新聞より。 12月7日、水沢市黒石町の岩手堰神社で屋根を修理していると、天井裏からピストル3丁と銃弾192発が発見された。 すぐに、水沢警察署に届けられれたが、これは14年式拳銃2丁とブローニング拳銃1丁であった。 神主も持ち主は全然知らないと言う。 おそらくは、終戦… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 5月 28日 1957 興安丸の引き揚げ家族が「初めての帰郷」(昭和32年5月28日) 昭和32年5月28日の岩手日報より。 戦後中国で結婚した日本人が、興安丸で一時帰国した。 特に、現地で生まれた子供は日本など初めてであり、緊張していたようだ。 … 続きを読む
l全県 5月 27日 1957 中国からの一時帰国者が急行「おいらせ」で帰郷(昭和32年5月27日) 昭和32年5月27日の岩手日報より。 終戦後も中国に居着いたままになっていた岩手県関係者が、急行「おいらせ」で帰宅するという。… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 4月 3日 1957 岩手にも被爆者がいた(S32.4.3岩手日報) 広島の原爆から12年が経ったが、原爆症で療養している人は岩手にもいた。 原爆から8年が経過した昭和28年ごろ発病し、この時点で毎日輸血が必要な体になっていたのだという。 この時期、イギリスではクリスマス島で水爆実験を行うということが話題になっており、この抗議として「この体を見ろ」と取材に応じたもの。… 続きを読む
e釜石・遠野・上閉伊郡 1月 8日 1956 遠野に平和大観音が建立(昭和31年1月8日) 昭和30年12月27日の岩手日報より。 後年、あんべ光俊の「遠野物語」で〽月夜の晩の福泉寺~と歌われた遠野市の福泉寺では、戦没者供養と戦災復興を祈願して、信者3000人の手により平和大観音像が慈眼寺の山頂に建立されることとなった。 高さは43尺(13メートル)であり、台座も含めると実に54尺(16.… 続きを読む
l全県 1月 7日 1956 樺太の拓銀に預金のあった人はお申し出ください!(昭和31年1月7日) 昭和31年1月7日の岩手日報より。 終戦して10年以上が経過した。 しかし樺太への預金が残っているなど、いろいろな問題が残っていたようである。 それで、北海道拓殖銀行では「樺太に預金があった人は拓銀の各支店に申し出てください」と広告を出している。 確かに、盛岡市内だと青山町には樺太からの引き上げ者が… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 11月 29日 1955 岩手県選出の社会党議員が中国の戦犯収容所を視察 昭和30年11月29日の岩手日報より。 岩手県出身で日教組の副委員長まで務め、参議院議員となっている小笠原二三男氏は、1か月の日程で陽春・北京・哈爾浜・瀋陽・上海・長春・撫順と中共の教育事情を視察し、28日に急行「十和田」で盛岡に帰り、「中国の教育は素晴らしいの一言に尽きる!」とベタ褒めしていた。 … 続きを読む
f花巻・稗貫郡 8月 10日 1955 花巻空襲10周年で全市民が黙祷(昭和30年8月10日) 昭和30年8月10日の河北新報岩手版より。 この10年前である昭和20年8月10日、花巻町は空襲被害に遭い、死者45名、焼失家屋673戸で盛岡・釜石に次ぐ被害となった。 この日は正午を期し、全市民が黙祷するという。 写真は花巻のメインストリートである上町通り。 勿論まだ花巻デパートもマ… 続きを読む
備考※1 12月 2日 1954 【参考】引揚船興安丸帰る 昭和29年12月2日の中日ニュースより。 シベリアからの引揚船・興安丸が舞鶴に入港。 「岸壁の母」でも知られる。 https://youtu.be/qACd4_aNuAM… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 4月 29日 1954 旧軍人が集まって「岩手県護国同志会」結成大会、元陸軍参謀の辻政信も講演(昭和29年4月29日) 昭和29年4月30日の岩手日報より。 この頃、MSA協定(日本国とアメリカ合衆国との間の相互防衛援助協定)が国会を通過し「日本も再軍備か」という話題で賑わっていた時期である。 そのような雰囲気の中で迎えられた天皇誕生日の4月29日、岩手県公会堂で元将官や佐官・在郷軍人など300名が集まって「岩手県護… 続きを読む
m県外・参考 3月 3日 1954 まだ引揚げせず中国に残っている岩手県出身者は75名(昭和29年3月3日) 昭和29年3月3日の岩手日報より。 この前年の昭和28年、中国(記事内の表現では「中共」)からの引揚げが第7次にわたって行われた。 これで帰国した岩手県関係の引揚者は193世帯、339名であったが、まで引き上げていない60世帯、75名がいることが分かった。 中国側では「もう引揚げ希望は無いもの」とし… 続きを読む
h水沢・江刺・胆沢郡 11月 20日 1953 ソ連からの帰還を待つ水沢の一家(S28.11.20胆江日日新聞) 終戦から8年たってもなお、引揚は100%済んだわけではなかった。 戦時中に朝鮮に渡っていたところ、家庭の事情で、日本に妻と子だけ引き上げていたところ、戦争が終わってしまい、夫と音信不通になってしまったと言うのだ。 それが、終戦から8年経って、ソ連で暮らしていると言う便りが届いたのであった。 &nbs… 続きを読む
i一関・西磐井郡 9月 22日 1953 「アナタハンの女王」比嘉和子が一関に来ます!(昭和28年9月22日) 昭和28年9月22日の岩手日日より。 一関の新星劇場では、「アナタハン島の真相はこれだ」を上映するという。 「アナタハン島の真相はこれだ」は昭和28年4月10日公開の新大都映画。 新大都映画とはあまり聞かない名前だが、zames_makiさんという方のブログによれば、「1953年頃に際物作品をわずか… 続きを読む
h水沢・江刺・胆沢郡 9月 3日 1953 中山マサ厚生政務次官が水沢で講演し座談会(昭和28年9月3日) 昭和28年9月5日の胆江日日新聞より。 水沢公民館主催の夏季大学では、厚生政務次官の中山マサを招聘して講演会を行ったという。 その後の座談会では、以下のようなことが話し合われたという。 未亡人にはタバコ販売店が優先的に許可されるので更生の一端にしてほしい。 妊娠調節の不徹底で不幸が起きている。その器… 続きを読む
i一関・西磐井郡 8月 25日 1953 中共からの帰国者のその後(昭和28年8月25日) 昭和28年8月25日の岩手日日より。 興安丸に乗って中国から帰国してきた人々はその後どうなっただろうか。 日本社会に順応しているだろうか。 一関市や西磐井郡では12世帯、27名いたのだという。 その数例を追う記事である。 一関市 42歳男性 昭和19年に三井鉱山本社から満州三井に転任。 引揚後、三井… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 5月 3日 1953 講和記念に盛岡市長ほか各界からの挨拶(昭和27年5月3日) 昭和27年5月3日の岩手新聞より。 サンフランシスコ講和条約が発効して、日本は名実ともに独立国となった。 それを記念して、盛岡市長・盛岡市議会・盛岡鉄道管理局・青森営林局岩手連絡室・盛岡郵便局・稗貫郡町村会挨拶の名刺広告を出している。 … 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 10月 7日 1952 盛岡市青山は「引揚者の町」だった 昭和27年10月7日の岩手日報より。 盛岡市青山町は、住民の実に7割までが引揚者であり、「岩鷲寮」には樺太からの無縁故引揚者が657世帯2785名、「青山寮」には朝鮮・台湾・南方からの引揚者が503世帯2322名入っていたという。 かつては「観武(みたけ)ヶ原」と呼ばれていた帝国陸軍の師団があった場… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 9月 11日 1952 聞け!映画「原爆の子」に寄せる巷の声(昭和27年9月11日) 昭和27年9月11日の岩手日報より。 サンフランシスコ講和条約までは、日本に国家主権はなく「occupied Japan」だったため、アメリカを批判するようなことは報道できなかった。 それで、原爆被害も大っぴらに報道することはできなかったのだ。 しかし、講和で独立を勝ち取ると、それを大っぴらにする… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 7月 4日 1952 岩手県出身BC級戦犯慰霊祭(S27.7.4岩手新報) フランキー堺主演「私は貝になりたい」でも話題となったB ・ C級戦犯であるが、日本が占領されている間は、戦争犯罪人として、その霊を慰めることも許されなかったが、講和によって独立を勝ち取り、初めて慰霊祭が開かれることになった。 … 続きを読む
l全県 2月 4日 1950 シベリアからの引揚促進に県民の声を結集(昭和25年2月4日) 昭和25年2月4日の新岩手日報より。 この時期、シベリア抑留は社会問題になっていた。 そこで、引揚促進の全国大会が開かれるに、先立ち、県内でも声を集めようと言うことになっていたようだ。 … 続きを読む
l全県 7月 15日 1949 第二次引揚者は小学生を動員して青い旗で迎えましょう(昭和24年7月15日) 昭和24年7月15日の岩手新報より。 中国大陸からの第二次引揚者入港を前に、県引揚援護課の運動協議会では「留守宅では引揚者に手紙を書くよう呼びかけたが、岩手県が一番少ない。手紙には朱書きで県名と『留守宅通信』である旨書くこと」と呼びかけていた。 また、引揚者が駅に到着したときのために、日の丸ではなく… 続きを読む
e釜石・遠野・上閉伊郡 5月 6日 1949 釜石の艦砲射撃被害の大重油タンクが復活(昭和24年5月6日) 昭和24年5月6日の新岩手日報より。 釜石の大石油タンクは、艦砲射撃で損傷したままとなっていたが、このほど復活したのだという。 … 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 12月 1日 1947 引き揚げ者援護のために歌謡コンクールやダンスパーテー(昭和22年12月1日) 昭和22年12月1日の新岩手日報より。 戦争が終わり、満州や朝鮮にいた人は引き揚げてきたわけだが、その経済的な貧窮は社会問題となっていた。 このために「角田屋事件」という誘拐事件まで起きたほどである。 これを憂慮してから、引揚者援護のために歌謡舞踊コンクールや大ダンスパーティーを開催すると言う事だっ… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 4月 5日 1947 岩手県食酢統制組合・岩手県農機統制組合の解散公告(昭和22年4月5日) 昭和22年4月5日の岩手日報より。 戦時中の物価統制組合であった「岩手県食酢統制組合」と「岩手県農機統制組合」が解散公告を出している。 戦後2年が経過しようとしており、戦争遂行のために物価統制する必要が無くなり、活動実態がなくなっていた所、法人を解散していなかったので登記上も正式に解散しよう・・・と… 続きを読む
f花巻・稗貫郡 8月 17日 1945 高村光太郎「一億の号泣」(昭和20年8月17日) 昭和20年8月17日の岩手日報より。 この当時、高村光太郎は、岩手県花巻町の宮沢賢治の弟の家に疎開をしていた。 そこで終戦を迎えることとなり、新聞に詩を寄せたのである。 … 続きを読む
l全県 8月 17日 1945 さあ、麦の供出だ(昭和20年8月17日) 昭和20年8月17日の岩手日報より。 それまで農家は「教室する麦を空襲で焼いては申し訳ない」と、袋に詰めて山の中に疎開させていた。 しかし、20日の供出期日が切迫していたので、農家は山から下ろしていた。 それまでの供出は、戦争に勝つための供出であったが、戦争が終わってしまったので、勝つための供出では… 続きを読む