a盛岡・岩手郡・紫波郡 3月 1日 1960 盛岡の建設業者が南ベトナムで合弁会社設立(昭和35年3月1日) 昭和35年3月1日の岩手日報より。 盛岡の建設業者が、南ベトナムの豊富な森林資源に着目し、合弁会社を設立するという。 … 続きを読む
人権・マイノリティ 12月 14日 1959 【参考】北朝鮮帰国 第1陣出航 昭和34年12月14日、北朝鮮への帰国第一便が新潟から出航。(TBSスパークルより) https://youtu.be/ByZYHAv-MLs… 続きを読む
e釜石・遠野・上閉伊郡 6月 27日 1959 日ソ協会釜石支部の設立式(昭和34年6月27日) 昭和34年6月25日の岩手東海新聞より。 日ソ協会釜石支部が設立されるというが、自民党も社会党も共産党も名を連ねている。 … 続きを読む
c久慈・九戸郡 1月 20日 1958 種市モグリが海外から次々求人(昭和33年1月20日) 昭和33年1月20日のデーリー東北より。 この当時、日本のサルベージ界のシェアを独占していたという種市町の「種市モグリ」が海外の求人が相次いでいるというニュース。 貴重な外貨の獲得源となっていたという。 … 続きを読む
c久慈・九戸郡 10月 17日 1957 久慈市の山内市長が北京へ出発(昭和32年10月17日) 昭和32年10月19日のデーリー東北より。 北日本港湾都市市長団の三役として、中共の北京市の招きで10月23日に羽田国際空港から香港経由で旅立つ久慈市の山内市長は、10月17日13時市役所前から市長専用車で市役所前を出発した。 市長は「1ヵ月の間、を留守にしますが、皆さん元気で勤めをお願いします。戦… 続きを読む
c久慈・九戸郡 10月 15日 1957 久慈市長の訪中に際し壮行会(昭和32年10月15日) 昭和32年10月17日のデーリー東北より。 北京市長の招きで、「北日本港湾都市市長団」の三役として久慈市長も中国に行くこととなった。 それに対して、10月15日、市役所別館にて壮行会が150人を集めて行われた。 市長は「漁業、水産物の交易とコルホーズが中国ではどのようになっているかを見極めたい。また… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 5月 28日 1957 興安丸の引き揚げ家族が「初めての帰郷」(昭和32年5月28日) 昭和32年5月28日の岩手日報より。 戦後中国で結婚した日本人が、興安丸で一時帰国した。 特に、現地で生まれた子供は日本など初めてであり、緊張していたようだ。 … 続きを読む
l全県 5月 27日 1957 中国からの一時帰国者が急行「おいらせ」で帰郷(昭和32年5月27日) 昭和32年5月27日の岩手日報より。 終戦後も中国に居着いたままになっていた岩手県関係者が、急行「おいらせ」で帰宅するという。… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 4月 20日 1957 中国青年団は盛岡を見てハオハオの連発(S32.4.20岩手日報) 中国友好青年団は、全国を見て歩いていたが、盛岡に来て岩手大学の温室を見たり、わんこそばを食べたりしてハオハオの連発であったと言う。 … 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 4月 20日 1957 中共から来た青年団がわんこそばに大喜び 昭和32年4月20日の読売新聞岩手版より。 中華人民共和国(当時は国交なし)から青年代表団5名が来日していたが、4月18日には青森から盛岡に来て繋温泉で宿泊。 翌19日には岩手大学農学部を見学し、阿部知事の招待に応じわんこそばで昼食会を行った。 この日の午後には県青年協会との交歓会に出席。 その後一… 続きを読む
m県外・参考 4月 23日 1956 北朝鮮からの帰国船「こじま」舞鶴港に到着(S31.4.23岩手日報) 戦争が終わって11年、大陸からの帰国者はまだ全て帰還できたわけではなかった。 北朝鮮からの帰国船「こじま」が舞鶴に到着し、それぞれの故郷に旅立っていったというニュース。 ここには、岩手県関係者がいるかどうかは書いていない。 … 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 11月 29日 1955 岩手県選出の社会党議員が中国の戦犯収容所を視察 昭和30年11月29日の岩手日報より。 岩手県出身で日教組の副委員長まで務め、参議院議員となっている小笠原二三男氏は、1か月の日程で陽春・北京・哈爾浜・瀋陽・上海・長春・撫順と中共の教育事情を視察し、28日に急行「十和田」で盛岡に帰り、「中国の教育は素晴らしいの一言に尽きる!」とベタ褒めしていた。 … 続きを読む
c久慈・九戸郡 6月 8日 1955 ブラジルから「岩手県人を」と指名で求人(昭和30年6月8日) 昭和30年6月8日のデーリー東北より。 久慈職業安定所に、6月8日、ブラジル行きの工業技術者皆が欲しいと求人依頼が舞い込んだ。 これは、岩手県出身で、この記事の現在ではリオデジャネイロでブラジル特産の宝石や貴金属製品を送り出している滞米40年の実業家によるものだった。 特に忍耐強い岩手県人を10名を… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 5月 18日 1955 岩手からブラジルに移民「ドシドシ移民お待ちしてま~す」 昭和30年5月18日の岩手日報より。 盛岡からブラジルに移民した養蚕農家の話を伝えている。 昭和29年7月に戦後初の養蚕移民としてサンパウロ州バストスに移民したのだという。 そして9月11日にバストスに到着し、元気に働き始めたのだという。 このバストス、「日本人は9割、外人は1割」なのだそうで、岩手… 続きを読む
備考※1 12月 2日 1954 【参考】引揚船興安丸帰る 昭和29年12月2日の中日ニュースより。 シベリアからの引揚船・興安丸が舞鶴に入港。 「岸壁の母」でも知られる。 https://youtu.be/qACd4_aNuAM… 続きを読む
m県外・参考 3月 3日 1954 まだ引揚げせず中国に残っている岩手県出身者は75名(昭和29年3月3日) 昭和29年3月3日の岩手日報より。 この前年の昭和28年、中国(記事内の表現では「中共」)からの引揚げが第7次にわたって行われた。 これで帰国した岩手県関係の引揚者は193世帯、339名であったが、まで引き上げていない60世帯、75名がいることが分かった。 中国側では「もう引揚げ希望は無いもの」とし… 続きを読む
h水沢・江刺・胆沢郡 11月 20日 1953 ソ連からの帰還を待つ水沢の一家(S28.11.20胆江日日新聞) 終戦から8年たってもなお、引揚は100%済んだわけではなかった。 戦時中に朝鮮に渡っていたところ、家庭の事情で、日本に妻と子だけ引き上げていたところ、戦争が終わってしまい、夫と音信不通になってしまったと言うのだ。 それが、終戦から8年経って、ソ連で暮らしていると言う便りが届いたのであった。 &nbs… 続きを読む
i一関・西磐井郡 8月 25日 1953 中共からの帰国者のその後(昭和28年8月25日) 昭和28年8月25日の岩手日日より。 興安丸に乗って中国から帰国してきた人々はその後どうなっただろうか。 日本社会に順応しているだろうか。 一関市や西磐井郡では12世帯、27名いたのだという。 その数例を追う記事である。 一関市 42歳男性 昭和19年に三井鉱山本社から満州三井に転任。 引揚後、三井… 続きを読む
m県外・参考 3月 4日 1953 海外への客船の便はこれだけあった(昭和28年3月4日) 昭和28年3月4日の読売新聞岩手版の広告欄より。 岩手県内のニュースとは関係なく、横浜や神戸などからの船便の出発情報であるが、かなりの便数が出ていたことがわかる。 まだブラジルへの移民も多い時期で、北米航路のみならずムンバイや南米などといった航路もある。 … 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 10月 7日 1952 盛岡市青山は「引揚者の町」だった 昭和27年10月7日の岩手日報より。 盛岡市青山町は、住民の実に7割までが引揚者であり、「岩鷲寮」には樺太からの無縁故引揚者が657世帯2785名、「青山寮」には朝鮮・台湾・南方からの引揚者が503世帯2322名入っていたという。 かつては「観武(みたけ)ヶ原」と呼ばれていた帝国陸軍の師団があった場… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 9月 16日 1952 GHQ仙台民事局「東北地方は凶作続きで可哀想だから、我がアメリカで農業技術を学ばせてあげよう!」(昭和27年9月16日) 敗戦により進駐軍が進出してきたわけだが、東北地方の民政は昭和20年の9月に塩竈から上陸したアメリカ軍第14軍団が、司令部を仙台・郵便貯金ビルに設置し行うこととなった。 そして昭和24年からは軍政をやめ、民政部となったのだが、その時期から仙台に勤務していたC.L.ミラー氏は、「恵まれない」東北の農業発… 続きを読む
e釜石・遠野・上閉伊郡 9月 4日 1952 釜石立ち寄りの貨客船にアメリカの旅行団 昭和27年9月4日の岩手日報より。 2日朝に釜石に入港した「マーチン・ベェクス」(5484トン)からアメリカの12人の観光団が上陸、旧盆で賑わう釜石市内を観光した。 この船は、サンフランシスコを出帆しマグネシアクリンカー1000トンを荷揚げし、横浜に立ち寄ったのちにシンガポールへ行くという。 日本最… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 9月 3日 1952 南部鉄瓶も「Made in Occupied Japan」(昭和27年9月3日) 昭和27年9月5日の岩手日報より。 後年「岩手県東京事務所」となる東京物産あっせん事務所に、アメリカはサンフランシスコの日系人から「南部鉄瓶50個」の依頼が舞い込んだ。 値段は東京渡しで700~2000円止まりという。 アメリカでは鉄瓶は日常使わず、飾り物にするのだという。 当時であれ… 続きを読む
m県外・参考 7月 28日 1951 言い方もあろうに「原爆美人」とは!?(昭和26年7月28日) 昭和26年7月28日の「夕刊いわて」より。 これはAP通信からの国際ニュースで岩手とは関係ないが、デンマークのコペンハーゲンで「ミス・ビキニ」を選んでいるという話。 ビキニ環礁は当時から核実験場として有名であったが、その見出しを、ことあろうに「原爆美人」とは、とてもとてもこの時代でも許されたものでは… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 12月 2日 1950 ララ物資にお礼のポストカード(昭和25年12月2日) 昭和25年12月2日の岩手新報より。 戦後の、アメリカ唐のララ物資は、岩手県内の厚生施設など各所に配られていたが、岩手県厚生課は、それに対するお礼としてポストカードを配ることにした。 … 続きを読む
l全県 2月 4日 1950 シベリアからの引揚促進に県民の声を結集(昭和25年2月4日) 昭和25年2月4日の新岩手日報より。 この時期、シベリア抑留は社会問題になっていた。 そこで、引揚促進の全国大会が開かれるに、先立ち、県内でも声を集めようと言うことになっていたようだ。 … 続きを読む
f花巻・稗貫郡 2月 2日 1950 日中友好協会岩手県支部結成(昭和25年2月2日) 昭和25年2月2日の新岩手日報より。 岩手2区選出の社会党議員・北山愛郎により日中友好協会岩手県支部が結成された。 この当時、日本と国交があったのは「国府」の方で、つまり中華民国の台湾の方。 … 続きを読む
e釜石・遠野・上閉伊郡 1月 4日 1950 釜石から北朝鮮への帰国者の記念植樹(S35.1.4岩手東海新聞) 釜石市から、北朝鮮に帰国する帰国者が10名いたのだそうで、それを記念して植樹が行われた。 … 続きを読む
k大船渡・陸前高田・気仙郡 11月 1日 1949 大船渡では引揚者が自力で更生市場(昭和24年11月1日) 昭和24年11月1日の岩手新報より。 気仙郡大船渡町では、引揚者が町議会議員の協力を得て国からの援助を断って自力で公正市場を作り上げたのだと言う。 そしてその途上では、世間の冷笑があったのだと言う。 現代の観点からだと、ちょっと想像しにくい話なのだが、引揚者が自分たちで生活を更生しよう… 続きを読む