h水沢・江刺・胆沢郡 11月 9日 1955 見出しもあろうに「あき盲の書類配達」(昭和30年11月9日) 昭和30年11月9日の岩手日報より。 「この道三十年」というシリーズものの記事で、この回では69歳の前沢町役場使丁にスポットを当てているのだが、見出しが「あき盲の書類配達」となっているのである。 ここでいう「あき盲」とは、非識字者であることを指しているようで、書類の配達が主な仕事であるにもかかわらず… 続きを読む
i一関・西磐井郡 6月 27日 1955 保険会社の外交員の初任給は3000円(昭和30年6月27日) 昭和30年6月27日の岩手日日より。 日本生命の一関支部では外交員を募集している。 初任給は3000円であるとか。 … 続きを読む
i一関・西磐井郡 6月 21日 1955 一関・千葉久デパートの求人広告(昭和30年6月21日) 昭和30年6月21日の岩手日日より。 千葉久デパートでは求人広告を出している。 ところで「千葉」「久」の間にワンスペース空いてたの? … 続きを読む
c久慈・九戸郡 6月 8日 1955 ブラジルから「岩手県人を」と指名で求人(昭和30年6月8日) 昭和30年6月8日のデーリー東北より。 久慈職業安定所に、6月8日、ブラジル行きの工業技術者皆が欲しいと求人依頼が舞い込んだ。 これは、岩手県出身で、この記事の現在ではリオデジャネイロでブラジル特産の宝石や貴金属製品を送り出している滞米40年の実業家によるものだった。 特に忍耐強い岩手県人を10名を… 続きを読む
g北上・和賀郡 7月 14日 1954 岩手県出身者も無傷ではなかった近江絹糸争議(昭和29年7月14日) 近江絹糸争議は、日本の労働運動史上でも有名な事件として今でも語り継がれている。 「近江」というくらいなので、中心は滋賀県であり、全国の事業所でも争議は発生していたが、岩手県に近江絹糸の事業所はなかった。 しかし、岩手県出身者も働いており、全く無関係と言うわけではなかった。 県人負傷 昭和29年7月1… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 4月 27日 1954 盛岡のニコヨン(日雇い)慰安大会 昭和29年4月28日の読売新聞岩手版より。 盛岡市内の日雇い労働者とその家族を慰安するために、盛岡公共職業安定所では、岩手県公会堂で「日雇労働者家族慰安大会」を開催した。 約600名の日雇労働者やその家族が、舞台で「素人のど自慢」「アベック二つの歌」「舞踊劇」などを行った。 のど自慢の優勝者には賞品… 続きを読む
h水沢・江刺・胆沢郡 4月 14日 1954 水沢で選管事務局長が過労死(昭和29年4月14日) 昭和29年4月15日の岩手日報より。 水沢市長選挙と水沢市教育委員選挙の公示日である4月14日朝6時過ぎ、その水沢市の選挙管理委員会事務局長(51歳)が自転車で通勤途中に突然心臓麻痺で死亡したのだという。 事務局長は前夜11時まで作業を行い、その日も朝3時から各支所あての事務作業を行っていたという。… 続きを読む
h水沢・江刺・胆沢郡 10月 2日 1953 水沢職業安定所「静岡にミカン採取の出稼ぎに行きませんか!」(昭和28年10月2日) 昭和28年10月2日の胆江日日新聞より。 水沢公共職業安定所が、静岡におけるミカン採取の農業労務者を募っている。 人員は150名で、10月5日までに各町村役場に申し込んでほしいとしている。 … 続きを読む
b二戸・二戸郡 9月 15日 1952 浪打村の鳥越を竹細工の一大名産地にしよう(昭和27年9月15日) 昭和27年9月15日の岩手日報より。 令和4年現在は一戸町となっている二戸郡浪打村鳥越地区では、竹細工が伝統的に行われており、それがにわかに中央で脚光を浴びだしたのだという。 そこで、工業技術院から講師を呼んで、それまでの武骨な実用本位のものから高級工芸品として売り出すようにしよう、ともくろんでいた… 続きを読む
f花巻・稗貫郡 5月 17日 1952 花巻職業安定所の庁舎完成(昭和27年5月17日) 昭和27年5月17日の岩手新聞より。 花巻職業安定所の庁舎が完成し、県労働部長などが臨席し、竣工式を行ったという。 … 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 6月 16日 1951 「婦人の職場を明るくしましょう」と叫んでいる県庁のお膝元にブラック企業(昭和26年6月16日) 昭和26年6月16日の「夕刊いわて」より。 この時期、県では「婦人の生活を明るくしましょう」と女性の働く職場の労働環境の向上を各職場に呼びかけていた。 そんな最中に、極めつけのブラック企業が県庁の中にあったのである。 それは県職員生活協同組合。 組合長以下7人の職員がいて、うち5人は女性。 その5人… 続きを読む
e釜石・遠野・上閉伊郡 5月 22日 1951 釜石製鉄所の社宅が松倉に2棟増えます!(昭和34年5月22日) 昭和34年5月22日の岩手東海新聞より。 釜石製鉄所の会社側と労働組合は、厚生委員会を開いて社宅入居規則などについて話し合った。 昭和34年度に実施される予定なのは以下の通り。 松倉に5号アパート 2棟 水道設備増強 1式 ガス配管 674戸 上中島の水道専用栓 803戸 小川に寮を新設  … 続きを読む
j東磐井郡 1月 12日 1950 東磐井郡の「糸姫」は業界不況で求人激減(S25.1.12岩手新報) 岩手県内有数の繭所として知られていた東磐井郡は、女性は嫁入り前に他の地方に製糸工場に働きに出るようになっていたようだ。 ところが、この時期は業界不況で、全国からの「糸姫」の求人に少なくなっていたようだ。 … 続きを読む
e釜石・遠野・上閉伊郡 9月 16日 1948 釜石製鉄所の工員募集!(昭和23年9月16日) 昭和23年9月16日の岩手新報より。 釜石製鉄所では行員を募集している。 当時は財閥解体前なので「日本製鉄」。… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 5月 18日 1948 松尾鉱山で従業員募集。月収は1,600~6,000円(昭和23年5月18日) 昭和23年5月18日の岩手新報の広告欄より。 岩手県と松尾鉱山では松尾鉱山の従業員を募集している。 月収は1,600円~6,000円。 どんな職種なら1,600円で、どんな職種なら6,000円だったのだろうか。 … 続きを読む
l全県 5月 18日 1948 政府機関の人員整理計画は岩手県庁は特に影響なし(昭和23年5月18日) 昭和23年5月18日の岩手新報より。 政府では「事務標準化」「生活安定」と目標として人員整理をすることとなった。 岩手県職員の定員は3,706名であったところ、このような定員整理を見越して、退職者を補充しない自然淘汰の形をとっており、この時点で3,065名になっており、特に人員整理を行わない方針であ… 続きを読む
e釜石・遠野・上閉伊郡 7月 12日 1945 上閉伊郡栗橋村では割当量の234%の松根油生産!(昭和20年7月12日) 昭和20年7月12日の岩手日報より。 4~6月の第1期の松根油生産において、県下で最も優秀な成績をあげたのは上閉伊郡栗橋村で、割当量の実に23割4分の生産を達成したという。 これは、責任者が滅敵の闘魂を燃やして2里(8km)の道を、未明から夜の8時まで何があっても帰宅せずに奮闘したからであるという。… 続きを読む
b二戸・二戸郡 7月 12日 1945 二戸郡福岡では松根油生産死守に「七人の侍」(昭和20年7月12日) 昭和20年7月12日の岩手日報より。 石油の採れない日本では、「ガソリンの一滴は血の一滴」で、木炭ガスで自動車を動かし、松根油で飛行機を飛ばそうとしていた。 この状況であるにもかかわらず、二戸郡福岡町の松根油生産状況は芳しくない状況であった。 そこで、福岡町農業会長は二戸国民動員署にこの実情を訴え、… 続きを読む
l全県 8月 1日 1944 岩手県協和会が朝鮮半島出身労働者を表彰(S19.8.1新岩手日報) 岩手県協和会は、半島出身労働者を表彰した。 このことからも、朝鮮人がどこで多く働いていたかが分かろうというもの。 … 続きを読む
e釜石・遠野・上閉伊郡 12月 1日 1943 釜石鉱山鉄道の従業員募集(昭和18年12月1日) 昭和18年12月1日の新岩手日報より。 釜石鉱山鉄道では、従業員を募集している。 職務内容は、運転士・車掌など。 募集は、県内各地の国民職業指導所にて。 … 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 11月 6日 1941 産業報国会が県下産業戦士投炭協議会を開催(昭和16年11月5日) 昭和16年11月6日の岩手日報より。 労働組合を翼賛体制に組み込んだ「大日本産業報国会」は、11月5日に内丸産業奨励館北館で県下産業戦士投炭協議会を開催した。 参加者数は「数においてはいささか物足りなさを感じたが」という程度であったという。 … 続きを読む
e釜石・遠野・上閉伊郡 1月 19日 1940 釜石港ではイワシが豊漁(昭和15年1月19日) 昭和15年1月19日の岩手日報より。 釜石港では近年にないイワシの豊漁であり、須賀埋立地派イワシの山でトラックが轢きつぶすような状況であったという。 ちなみに記事中では一貫してイワシは「鰮」と表記している。 魚油は35,000缶と前年の9,500缶に比べて4倍近くなり、肥料に使う〆粕も前年の5割増し… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 7月 20日 1939 県庁職員がトップを切り盛岡高等工業学校の校地整備奉仕作業 昭和14年7月20日の岩手日報より。 この年、戦時中の技術力確保を目的として全国に7校の高等工業学校が開校した。 (室蘭、盛岡、多賀、大阪、新居浜、宇部、久留米) そのうちの1校である盛岡高等工業学校は最初は盛岡夜間中学校(現:杜陵高校)の敷地に仮開校した。 本校舎を上田(現在の岩手大学工学部)に設… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 8月 12日 1938 覆面座談会:盛岡市内の女中の労働環境について(昭和13年8月12日) 昭和13年8月12日の岩手日報より。 盛岡市内の金持ちの家では女中を欲しがっているが、盛岡職業紹介所では女中の応募がまるでない。 これは職業紹介所の無能ではないか??? 職業紹介所長いわく、「そんなのは逆恨みだ。むしろ雇用してる方が待遇が悪いのを反省しろ!」 データとしては以下の通り。(昭和12年7… 続きを読む
e釜石・遠野・上閉伊郡 5月 16日 1937 明治神宮で賽銭泥という不敬を働いた男の親は・・・ 明治神宮は明治天皇を祭る畏き神域。 その明治神宮で賽銭泥棒という大それた不敬をしでかした30歳の男は、岩手県のどこだかの街の出身だった。 郷里に住むその男の父親だけでなく、その町の町長までが東京に出て明治神宮でお詫び行脚である。 明治神宮の神域で不敬を働くということは、それほどの大それたことであった… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 4月 13日 1935 凶作に恵まれて?女の失対事業花盛り(S10.4.13岩手日報) 昭和9年は史上稀見る凶作の年だった。 そのせいでか、県内に84ヶ所の農村主婦向けの授産場ができたという。 盛岡市内の浄土宗の寺に設けられた軍服の修繕工場もその1つ。… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 3月 3日 1935 盛岡・松屋デパートが少年店員募集(S10.3.3岩手日報) 盛岡の松屋デパートでは少年店員を募集していた。 15歳以上ということであったが、松屋デパートが閉店した昭和40年代には40代。 その閉店を見届けたこの時の少年店員もいたのだろうか。 … 続きを読む
i一関・西磐井郡 3月 1日 1935 炭焼きしか知らない山の娘は親の死で孤児となり…(昭和10年3月1日) 昭和10年3月3日の岩手日報より。 3月1日の17時半ごろ、一関警察署に14歳から15歳の女の子がきた。 曰く「私をどこかに世話してください」と。 この女の子の本籍地は福島県のようであるが、父は炭焼きをして山から山を渡り歩き、数年前から東磐井郡大津保村の津谷川でこもって炭焼きをしていた。 しかし、昭… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 9月 6日 1929 盛岡には失業者が300人以上(昭和4年9月6日) 昭和4年9月6日の岩手日報より。 盛岡市職業紹介所における、8月中の求職状況は、男68名、女17名の85名の求職に対し、就職したのは男30名、女11名の41名に過ぎなかったと言う。 男は珍しく店員や行員の就職が多く、女は大抵が女中であった。 これでも、1月から求職をしていながら、いまだに職業がないも… 続きを読む