a盛岡・岩手郡・紫波郡 30 11月 1950 早くやってほしい施設15傑(昭和25年11月30日) 昭和25年11月30日の岩手新報より。 岩手新報では「早くやってほしい施設」に関して投票をやっていたようだ。 そして11月30日現在の15傑が出たのである。 … 続きを読む
c久慈・九戸郡 5 11月 1949 岩手新報八戸支社・久慈支局開設を祝う広告(昭和24年11月5日) 昭和24年11月5日の岩手新報より。 岩手新報では、八戸や久慈に支社や支局を開設したようで、それを祝う広告が各界から寄せられた。 警察署までの公共機関からも報告が寄せられているが、このような時、広告料は税金から出たのだろうか。 … 続きを読む
m県外・参考 1 7月 1946 人気の「こどもしんぶん」(S21.7.1新岩手日報) この時期、新岩手日報では「こどもしんぶん」を発行していたようだ。 食糧難にあえぐ時期でも、このようなエクストラな消費をできるところはしていた、ということのようだ。 … 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 10 3月 1945 盛岡空襲 昭和20年3月10日、東京大空襲と同じ日に盛岡でも空襲があった。 翌3月11日の岩手日報では、裏面のトップでそれほど大きい扱いではないが、「本県に醜翼をあらわし盲爆を落とし、あわてふためきながら海上に脱去した」と、あくまで敵を醜悪に表現することにこれ努めたている。 「それでも市民は戦った」と、被害状… 続きを読む
l全県 20 1月 1942 日独伊軍事協定が成立し、岩手県下でも新たな感激(昭和17年1月20日) 昭和17年1月20日の岩手日報より。 見出しは「日独伊軍事協定成立の快報 県下に新たな感激」と題し、「待望の日独伊軍事協定がベルリンに於いて調印された」とのことで、「我が方参謀部長ならびに軍令部長の名を以て代理者がこれを行った巡潜たる軍事協定で・・・」とのことであった。 これは、1月18日に調印され… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 31 1月 1940 新岩手日報から8人目の従軍記者(昭和15年1月31日) 昭和15年1月31日の新岩手日報より。 この時期は日中戦争期であり、連日その戦況が新聞で報じられていた。 誰が情報を発信していたかと言えば、それは各部隊に従軍記者が随行していたからである。 この従軍記者により、郷土出身の将兵の武勲が県民に伝えられていたのである。 そしてここに8人目の従軍記者を送るこ… 続きを読む
e釜石・遠野・上閉伊郡 5 9月 1934 祝・岩手日報社釜石支局新築(S9.9.5岩手日報) 岩手日報社の釜石支局が新築したという記事。 かつての岩手日報の社章も出ているが、これは旧岩手日報社で、現在の岩手日報の系統とは少し違う。… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 1 2月 1933 松屋の決算大売出し!(昭和8年2月1日) 昭和8年2月1日の岩手日報より。 松屋で決算大売出しをやるという広告を1面トップで扱っている。 昭和初期の岩手日報はたまにこんなのがあった。… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 1 11月 1932 公会堂の松屋デー(S7.11.1岩手日報) 岩手県公会堂で松屋デーとして特売会をやるという記事。 ところで、一面が広告になってる時代もあったようだ。 … 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 1 1月 1932 新年度募集入選作「皆で笑って」(S7.1.1岩手日報) 昭和7年1月1日の岩手日報には、新年度の写真コンクール入選作として「皆で笑って」という作品が掲載されていました。 作者は唐武作氏。画面には、屋外で三脚にカメラを構えた男性と、それに向かって笑顔を向ける子どもたちの様子が写し出されています。 岩手日報では、このように写真愛好家から作品を募り、優秀作を紙… 続きを読む
l全県 6 9月 1931 岩手日報の1面トップは全面「キング」の広告(S6.9.6岩手日報) 昭和6年9月6日の岩手日報より。 この日の1面トップは、なんと雑誌「キング」の全面広告であった。 戦前の新聞では、こうした大判広告が1面を占拠することもあったようだが、岩手日報のような地方紙でも実際に行われていたのは興味深い。 新聞といえばニュース記事が並ぶという現代の感覚からすると、かなり意外な紙… 続きを読む
m県外・参考 1 1月 1931 在仙県人有志からも年始の挨拶(S6.1.1岩手日報) 昭和6年の元日、岩手日報紙面には、仙台で活躍する岩手県出身者や県ゆかりの企業からの新年広告がずらりと並んだ。 「謹賀新年」の大きな題字とともに、「在仙縣人有志不動町」と記された枠には、仙台市で事業や商売を営む岩手出身の人々が名を連ねている。 また、広告を出している企業の多くは、所在地に「仙臺」「青葉… 続きを読む
l全県 1 1月 1931 昭和六年新年号(S6.1.1岩手日報) 昭和六年の元旦紙面──羊の年を迎える 昭和6年1月1日、岩手日報の新年号は、未年(ひつじどし)の到来を寿ぐ特別な紙面で飾られている。 冒頭には大きく右書き横書きで「岩手日日新聞新年号」と描かれ、日の出を背景に数頭の羊がゆったりと佇む絵が据えられている。山並みと海原を背に、朝日が昇る構図には、吉兆を祈… 続きを読む
l全県 6 9月 1929 一面は広告欄(S4.9.6岩手日報) 昭和4年9月6日の『岩手日報』一面を開くと、目に飛び込んでくるのは新聞記事ではなく、所狭しと並ぶ地元企業の広告の数々である。見出しも記事本文もなく、紙面全体が広告に費やされている。 とりわけ目立つのは、「松屋百貨店」の創業二周年記念感謝大売出しの広告だ。丸に「松」の紋を大きく掲げ、扇風機や下駄、時計… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 1 9月 1929 紫波郡・気仙郡の度量衡取締主任が岩手日報本社見学(S4.9.1岩手日報) 昭和初期のある一日、紫波郡と気仙郡から選抜された度量衡取締主任40名が、盛岡市内にある岩手日報本社を訪問し、施設見学を行った。新聞紙面には、その様子を撮影した写真も掲載されている。 見学の目的は、報道機関の実務や印刷技術、編集体制を知ることにあったと考えられる。写真からは、印刷機が並ぶ工場のような現… 続きを読む
l全県 1 9月 1929 岩手文化投票の中間集計(S4.9.1岩手日報) 昭和4年の岩手日報には、「岩手文化投票」なるユニークな企画が展開されていたようです。 昭和4年9月1日付の紙面では、その中間集計が大きく掲載されており、県内各地の文化人・団体・機関などに対する投票の様子がうかがえます。 とはいえ、この投票の趣旨や制度の詳細――たとえば、 誰が投票できるのか 投票の方… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 5 9月 1928 岩手日報の一面が全部広告(S3.9.5岩手日報) 昭和3年9月5日の岩手日報紙面には、一面全体が広告で埋め尽くされるという、現代の感覚からすれば異例ともいえる紙面構成が見られる。このような構成は、全国紙ではまず見られないが、地方紙では当時まま見られたものであった。とくに季節の変わり目や地元有力商店の節目の時期には、こうした「一面全面広告」という編成… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 16 3月 1927 女子師範学校の卒業生が岩手日報社を見学(S2.3.16岩手日報) 昭和2年3月16日の岩手日報より。 当時、盛岡市内丸にあった岩手女子師範学校の卒業生たちが、岩手日報社を見学したときの一枚である。引率は堀江・新藤の両教諭、訪問は午後3時に実施された。 この日、見学に訪れたのは卒業生70余名。一行は整然と社内に入り、新聞制作の現場を興味深く見学した。写真には、袴姿の… 続きを読む
l全県 1 1月 1927 昭和2年の元旦は「諒闇奉悼」(S2.1.1岩手日報) 昭和2年(1927年)1月1日の岩手日報―― その元日号は、私たちがよく知る「新年の新聞」とはまったく趣を異にしています。 前年12月25日、大正天皇が崩御され、ただちに昭和と改元。新天皇・裕仁親王の践祚により、新しい時代が始まりました。 しかし、宮中では深い哀悼の意を表す「諒闇(りょうあん)」の期… 続きを読む
l全県 29 12月 1926 昭和元年の岩手日報は今日で最後です(S元.12.29岩手日報) 昭和元年十二月二十九日の『岩手日報』には、簡潔な一文が載っていた。 お断り 本日の本紙を以て本年の終刊と致します この年の十二月二十五日、大正天皇が崩御し、改元されて間もない時期である。昭和という元号はすでに用いられているが、世は「諒闇」の期間中にあった。新聞や雑誌、広告、演芸、映画なども相次いで自… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 29 12月 1926 大正天皇崩御の喪中は岩手日報主催・講演の催しは自粛します!(S元.12.29岩手日報) 昭和元年12月29日の『岩手日報』紙上に、「社告」として一件の告知が掲載されている。これは、大正天皇崩御にともなう「第1期喪中(50日間)」の期間中、岩手日報社が主催・後援する催しについての方針を読者に示すものであった。 社告によれば、「喪中五十日間に本社主催又は後援の催しものを一切御遠慮申上げる事… 続きを読む
0_主要ニュース 26 12月 1926 大正天皇が崩御し、昭和に改元したとき盛岡市内では(昭和元年12月26日) 大正天皇崩御まで 病弱であった大正天皇は、大正15年8月には葉山御用邸で療養することになる。 そして11月にはその病状が毎日報道されるようになり、全国では快癒祈願が行われるようになる。 岩手県内でも例の一部を挙げるだけでも以下の通りとなる。 ・吹雪の中、飯岡尋常高等小学校生徒が村社で大正天皇の平癒祈… 続きを読む