a盛岡・岩手郡・紫波郡 4月 18日 1958 タクシーに乗るならトヨペットコロナをお選びください 昭和33年4月18日の岩手日報に掲載された広告より。 広告主は岩手トヨペット。 この時点ですでに、県域単位の販社を持っていたのだ。 そしてコロナをタクシーに使用しているタクシー会社も掲載している。 盛岡タクシーはそうではなかったのね・・・ … 続きを読む
d宮古・下閉伊郡 10月 27日 1957 宮古二中の生徒が文通で八戸を紹介(昭和32年10月27日) 昭和32年10月27日のデーリー東北より。 宮古二中の生徒が、全国と文通をしていたが、その中で、八戸市教育委員会にも手紙を送ってきたようで、八戸を水産都市として紹介してどうたらこうたらと言う記事。 … 続きを読む
d宮古・下閉伊郡 4月 19日 1957 サケマスはえなわ漁船解禁へ 昭和32年4月19日の岩手日報より。 翌4月20日から、サケ・マスのはえなわ漁が解禁になるというので宮古などの漁港が沸き立っている。 宮古港では49隻、山田港では11隻、田老港では5隻と、前年より5隻減少しているといが、100万貫を期待しているという。 記事では「資材が少なく、しかも安全操業ができて… 続きを読む
c久慈・九戸郡 4月 2日 1957 三陸沿岸は絶好の潮干狩り日和(昭和32年4月2日) 昭和32年4月3日の岩手日報より。 4月2日は旧暦3月3日で桃の節句。 三陸沿岸は好天に恵まれ潮干狩り日和となり、盛鉄局は山田線や八戸線に臨時列車を出して潮干狩り客をさばいたという。 写真は大槌町の洲崎海岸で、5,000人の人出でにぎわったという。 釜石市の鵜住居海岸でも3,000にんの人出でにぎわ… 続きを読む
d宮古・下閉伊郡 1月 8日 1957 新里村ではラワン材を6万石輸入へ(昭和32年1月8日) 昭和32年1月8日の河北新報より。 新里村の主産業は林業であるが、ベニヤ板の製造に、ラワン材をフィリピンや台湾から輸入するのだという。 それで、宮古港に水揚げされた。 … 続きを読む
d宮古・下閉伊郡 7月 11日 1956 海というものを初めて見た山の分校の子供「なんて広かんべぇ!」 昭和31年7月11日読売新聞夕刊より。 下閉伊郡安家村の安家小学校坂本分校では7月2日に、宮古の浄土ヶ浜への修学旅行が行われた。 そもそも、安家村の坂本地区とはどのような場所であるか。 木炭や林業の村であったが、現金収入が非常に少ない部落であった。 「日本のチベット」と呼ばれる地域である。 最近、文… 続きを読む
d宮古・下閉伊郡 4月 23日 1956 北洋サケ・マス独航船が釜石や宮古を出発(S31.4.23岩手日報) この時期、ソ連が北洋漁業に関して制限を設けるなど、北洋漁業は緊迫した情勢になっていた。 そのような中を、釜石港や宮古港からサケ・マスの独航船が次々と悲壮な覚悟で出発をしていった。 … 続きを読む
d宮古・下閉伊郡 4月 21日 1956 県内の漁港からカムチャッカへの北洋独航船出発(S31.4.21岩手日報) 日ソ漁業交渉の方向性がわからない時期であったが、カムチャッカの沖合へ北洋独航船が県内の漁港からも出発。 … 続きを読む
d宮古・下閉伊郡 3月 22日 1956 宮古の閉伊川河口は干潮時は船が横倒し(昭和31年3月22日) 昭和31年3月22日の河北新報岩手版より。 宮古市築地通りの閉伊川河口の漁船係留場は、閉伊川から流入する土砂のために、年々水深が浅くなり、干潮時になれば係留中の漁船が度々横倒しになると言う危険な状態となっていた。 この辺は、常に出漁前後の漁船数十隻が係留されている場所だった。 この付近は、昭和23年… 続きを読む
d宮古・下閉伊郡 3月 17日 1956 牡蠣むきで教科書代を稼ぐ漁村(昭和31年3月17日) 昭和31年3月17日の河北新報岩手版より。 宮古港から巡航船で30分のところにある宮越白浜部落は、75世帯、人口750名の小さな漁村である。 ここにある白浜小学校には、78名の児童が通っているが、漁業の不振から部落自体の経済自体がひどくなり、600円から1000円の教科書代すら捻出できない状況であっ… 続きを読む
d宮古・下閉伊郡 2月 12日 1956 宮古の公益質屋は残念な大繁盛(昭和31年2月12日) 昭和31年2月12日の河北新報岩手版より。 宮古市の公益質屋は、この時期、悲しいことに大繁盛していた。 お客様は、漁閑期に入った零細漁民や日雇い労働者であった。 また、秋のスルメ漁の不漁もこのことに輪をかけた。 質草は、服が多かったと言う。 … 続きを読む
d宮古・下閉伊郡 1月 11日 1956 新里村で20貫(75kg)のクマ射止める(昭和31年1月11日) 昭和31年1月14日の岩手日報より。 前年2月1日に下閉伊郡茂市村と刈屋村が合併して誕生した新里村の山中で、20貫(75kg)のメス熊を射止めたという。 1月11日に熊狩りに行っていたところ、日が暮れようとしている4時半にクマ穴を発見。 中からクマが出てきたので4mの至近距離までおびき寄せ、襲い掛か… 続きを読む
d宮古・下閉伊郡 1月 8日 1956 躍動する宮古港(昭和31年1月8日) 昭和31年1月8日の岩手日報より。 宮古市内を空撮した画像。 この時期、宮古港は3000トン岸壁から延長して10000トン岸壁の建設工事が始まっている時期だった。 また、閉伊川の加工を磯鶏海岸に切り替える計画もあったという。 … 続きを読む
d宮古・下閉伊郡 1月 4日 1956 南部鼻曲がり鮭で有名な津軽石川で川開き(昭和31年1月4日) 昭和31年1月5日の岩手日報より。 「南部鼻曲がり鮭」で有名な津軽石川では、津軽石村から宮古市になって初めての川開きが行われた。 有名なイベントなのでカメラの放列と共に川開きとなった。 … 続きを読む
d宮古・下閉伊郡 1月 4日 1956 安家(岩泉)の山奥でペット用に猿を繁殖させるぞ! 昭和31年1月4日の岩手日報より。 この昭和31年は申年であり、猿に関する記事が多くみられたが、初代民選知事の国分謙吉には夢があったという。 それは、安家村(現:岩泉町)の山奥で、ペット用に猿を放牧してはどうかというものであった。 犬や猫のように「愛玩動物」として猿を繁殖させようというのである。 明… 続きを読む
d宮古・下閉伊郡 12月 21日 1955 宮古市役所「吏員ども!お前らにボーナス払ったら年越しできなくなるぞ!滞納税金取り立てて来い!」(昭和30年12月21日) 昭和30年12月21日の岩手日報より。 宮古市では市役所吏員に冬のボーナスを支払ったら年末の諸々の支払いができなくなるという。 そこへ来て、過年度分の市税滞納が3700万円、昭和30年度も3200万円がまだ納付されないままだという。 そこで12月16日~27日を「納税強化期間」と位置づけ、全吏員に市… 続きを読む
d宮古・下閉伊郡 12月 20日 1955 昭和の大合併で津軽石村を編入した宮古市「私有林の半額払下げなんて引き継いでません」(昭和30年12月20日) 昭和30年12月20日の岩手日報より。 この年の4月1日、宮古市は周辺の花輪村・崎山村・重茂村と共に津軽石村を合併した。 「昭和の大合併」である。 この中で、津軽石村では村有林を営林署払下げ価格の半額で地元部落民に払下げるように村議会で議決していた。 これが昭和30年4月1日の合併で「市有林」となっ… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 11月 17日 1955 山田線の捨て子(昭和30年11月17日) 昭和30年11月17日。 宮古発盛岡行きの411列車が区界駅に到着しようとした時のこと。 車掌が検札していると、小さい女の子が泣いている。 どうやら迷子になったらしい。 親の名前を聞いても、それどころか自分の名前すら言えないらしい。 これはいったいどうしたものか・・・ 盛岡に到着し、とりあえず中央児… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 11月 16日 1955 山田線の赤字はすでに3億円(昭和30年11月16日) 昭和30年11月16日の岩手日報より。 前年、やっとのことでアイオン台風の被害から復旧し全線開通はしたものの・・・ 岩手日報の表現をそのまま使えば、「あまりにもみじめであり、栄養失調寸前のうきめに会っているという情ない現状だ」とまで言われる状況であった。 盛鉄局管内には12の路線があったが、営業成績… 続きを読む
d宮古・下閉伊郡 8月 3日 1955 宮古の遊園地で小鹿が誕生(昭和30年8月3日) 昭和30年8月3日の河北新報岩手版より。 宮古市末広町の双葉遊園地では鹿がいたようであるが、このほどメスの子鹿を生んだとの由 もともとは、宮古市で前年の5月に宮城県林務部の斡旋で金華山のつがいの鹿を円で購入したのだと言う。 これが子供を産んだのだが、なぜか親鹿は子供を寄せ付けない。 かわいそうに思っ… 続きを読む
d宮古・下閉伊郡 8月 1日 1955 山田線の平津戸駅が元気だった頃(昭和30年8月1日) 昭和30年8月1日の河北新報より。 広告欄には「岩手のヒバ」として、山田線平津戸駅前の製材所の広告がだされている。 平津戸駅といえば、令和4年(2022年)3月に全列車通過となる「事実上の駅廃止」となっていたてしまったが、往年は木材の積出駅として賑わったのだ。 事実上の廃止に際し、実際… 続きを読む
c久慈・九戸郡 1月 10日 1955 三陸縦貫鉄道と北上山系横断鉄道に国鉄の調査隊 「日本のチベット」と呼ばれていた岩手県の内陸北部に鉄道を通そうという計画は、実にこの頃からあった。 昭和30年1月10日読売新聞より そこで、国鉄は調査隊を派遣して基礎調査を行うことになった。 区間は宮古〜小本〜久慈の「三陸縦貫鉄道」と、沼宮内〜岩泉〜小本の「北上山系横断鉄道」。 この時点では、いず… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 11月 21日 1954 山田線が6年ぶりに復旧 昭和23年のアイオン台風で山田線が普通となっていたが、最後まで残っていた腹帯〜平津戸間が、昭和29年11月21日に全線復旧することとなった。 「オイラン列車」の簪も頼もしい。 昭和29年11月11日読売新聞岩手版より そして11月21日の開通式では、宮古駅のすぐ裏にある宮古高校の講堂で国分知事や岡田… 続きを読む
d宮古・下閉伊郡 9月 1日 1954 ビキニ「死の灰」で宮古でも原水禁運動(S29.9.1岩手日報) 3月1日のビキニ環礁の「死の灰」は日本社会にショックをもって伝えられた。 この時点で、久保山愛吉さんはご存命中で、危篤が伝えられる状況であった。 そのような中、宮古でも原水禁運動が繰り広げられた。 … 続きを読む
d宮古・下閉伊郡 8月 1日 1954 川井村の僻地生徒のために県北バスが無料スクールバス(S29.8.1岩手日報) 川井村の川井中学校では、学区が非常に広く、場所によっては往復4里の道を歩かなければいけない生徒もおり、これでは予習復習する暇もなく、ぐったり寝てしまい、学力の低下や長期欠席につながっていた。 そこで、校長が県北バスに頼み込んで、無料のスクールバスを走らせてくれるように頼んだのである。 その結果、県北… 続きを読む
d宮古・下閉伊郡 4月 12日 1954 岩手殖産銀行宮古支店でギャング事件(昭和29年4月12日) 昭和29年4月12日は低気圧が本州を北上し、全国的に大雨となっていた。 そんな日の夕方4時過ぎ、岩手殖産銀行宮古支店では、公金取扱指定金融機関となっている宮古市の金庫から現金を持ってくる作業を行う25歳の職員がまだ帰ってこない。 まさか現金を持ち逃げするような男でもないはずだ。 そう思って雨の中、周… 続きを読む
d宮古・下閉伊郡 4月 10日 1954 宮古魚市場で3貫500匁の大マス 宮古魚市場で、体重3貫500匁という大マスが水揚げされ、5,000円で売れたという。 ちなみに以下のサイトによれば、3貫500匁とは13.125kgのことらしい。 昭和29年4月12日読売新聞岩手版より。… 続きを読む
d宮古・下閉伊郡 12月 16日 1953 へき地教育の過酷な現実 昭和28年12月16日の読売新聞では、全国のへき地教育の過酷な実態を報じている。 降水で丸木橋が渡れなくなると荷物用のケーブルで通学する(群馬県中里中) 山道が険しいので冬季の通学は部落民が交代で提灯を持っていく(岐阜県) 通学路は波が引いたときに数百メートルを命がけで走る(青森県脇野沢村) 子供が… 続きを読む