山田線にディーゼルカー導入で「カラス列車」追放へ(昭和34年12月1日)

昭和34年12月2日の岩手日報より。

それまで、盛岡~宮古を結ぶ山田線といえば急勾配やトンネルをC58や8620といった蒸気機関車が喘ぎながら、機関士も客も煙で真っ黒になりながら移動するのが当たり前の「カラス列車」だった。

このような中、12月1日、山田線の盛岡~釜石にディーゼルカーは導入されることになった。

当日、宮古駅では9時37分に到着した盛岡からの一番列車を宮古市長、宮古市議会議長、盛岡鉄道管理局長、盛岡鉄道管理局旅客課長ら100人が出迎え、宮古市内の女子小学生3名が晴れ着で運転手と車掌2名に花束贈呈を行った。

そして9時48分に4両編成のディーゼルカーは釜石に向けて出発した。

また、宮古市役所では祝賀行事を行い、宮古市内を宮古高校のブラスバンドを先頭に華やかなパレードを行った。

それだけ、「カラス列車」からの解放は。多くの市民から待ち望まれたことだった。

 

2枚目の写真の、宮古の閉伊川の橋梁を渡る4両編成のディーゼルカーは1両目から順に、キハ52・キハ51・キハ51・キハユニ26だろうか。

キハ52とキハユニ26はカーキ色と青の旧気動車標準色、真ん中の2両はキハ55のような準急色ではあるが、バス窓であることと乗降扉のステップがかなり深いことを考えるとキハ55ではなく10系気動車、急こう配の多い山田線であることを考えると2エンジンのキハ51と考えて差支えなさそうである。

 

 


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