d宮古・下閉伊郡 5月 18日 1953 下閉伊郡の漁場ではブリ・マグロの最盛期 昭和28年5月13日の読売新聞岩手版より。 下閉伊郡沿岸の漁場ではブリ・マグロの最盛期となっていた。 重茂村漁協の根滝漁場では30~40貫内外の大マグロが2~3本ずつ漁獲したほか、1貫500匁という大きなブリも水揚げされたという。 … 続きを読む
d宮古・下閉伊郡 3月 5日 1953 宮古市は公用車にフォードを購入(昭和28年3月5日) 昭和28年3月5日の読売新聞岩手版より。 宮古市では、これまでジープを改装した車を公用車として使っていた。 しかし、戦争用の車だっただけに、乗り心地が悪く、独立した平和国家のお役所やふさわしくないと考えたようで、90万円を叩いて、47年型フォードを1台を買い込んだ。 また、この時期の宮古市は、港湾開… 続きを読む
d宮古・下閉伊郡 3月 3日 1953 三陸大津波から20周年で真剣な避難訓練(昭和28年3月3日) 昭和28年3月3日の読売新聞岩手版より。 昭和8年3月3日の三陸大津波からこの日で20周年を迎えることとなった。 津波の曲波風化しているところが、この前の年の津波訓練が終わって間もない昭和27年3月4日には十勝沖地震があり津波に襲われた。 その痕跡も生々しい状態で、沿岸各地では真剣に津波訓練が行われ… 続きを読む
d宮古・下閉伊郡 9月 21日 1952 釜石港も宮古港もサンマ漁船でいっぱい(S27.9.21岩手日報) サンマ漁のシーズンとなり、岩手からも船団が漁場を目指す。 釜石港も宮古港も賑わっている。… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 9月 18日 1952 岩手の死因は都市は結核、米作値は脳溢血、若者は自殺が多いようだ(昭和27年9月18日) 岩手県民はどのような理由で死ぬのか。 岩手大学農学部小柳達男氏が県内の地域別に死因の調査を行った。 米作地(水沢):10万人 死亡者・・・10万人中213.3人 脳溢血・・・同 38.3人 結核 ・・・ 同 24.4人 乳児栄養不良 ・・・ 同 22.3人 畑作地(福岡(二戸)):7万人 死亡者・・… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 9月 17日 1952 盛岡八幡宮の流鏑馬と宮古・横山八幡宮の引船祭り(昭和27年9月17日) 昭和27年9月17日の岩手日報より。 盛岡では八幡宮の秋祭りが行われ流鏑馬が行われたが、宮古の横山八幡宮では引船祭りが開催された。 その写真記事。 … 続きを読む
d宮古・下閉伊郡 9月 16日 1952 宮古港の朝(昭和27年9月16日) 昭和27年9月16日の岩手日報より。 「朝の生態」と言うシリーズものの写真記事があったようである。 今回は宮古港で、朝も明けないうちから、あみ等の準備を始めててむ出量に次々と出かけていくことが描かれている。 そして、寮から戻ってこようとする頃には、今度はモッコを担いだ行商の女性たちが港にぞろぞろと来… 続きを読む
d宮古・下閉伊郡 9月 7日 1952 全国的に珍しい田老町の防波堤(S27.9.7岩手日報) 囲み記事で、田老町についての紹介がなされている。 この当時はまだ田老町は田老鉱山が操業していた鉱山町であり、また津波避けの防波堤は全国的に珍しかった。 … 続きを読む
d宮古・下閉伊郡 5月 6日 1952 岩泉町の町制施行30周年広告(昭和27年5月6日) 昭和27年5月6日の岩手新聞より。 岩泉町は、この年町制30周年を迎えたと言う。 上では、町内の各事業所が名刺広告を出している。 まだ国鉄岩泉線が開業していなかった頃なので、岩泉への足は国鉄バスであり、国鉄バス岩泉営業所が広告を出している。 また、県北バスの本社があった頃で、岩泉町内に路線がないにも… 続きを読む
b二戸・二戸郡 1月 5日 1952 1市5郡で供米完了(昭和27年1月5日) 昭和27年1月5日の岩手新報より。 この当時は、米は完全に国で管理していたので、米を生産したら必ず一旦国に収めるようになっていた。 これが米の供出である。 そしてそれは、自治体ごとに統計されていた。 この時点で、その供出が完了していたのは、釜石市・気仙郡・胆沢郡・稗貫郡・上閉伊郡・下閉伊郡・二戸郡の… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 11月 30日 1950 早くやってほしい施設15傑(昭和25年11月30日) 昭和25年11月30日の岩手新報より。 岩手新報では「早くやってほしい施設」に関して投票をやっていたようだ。 そして11月30日現在の15傑が出たのである。 … 続きを読む
d宮古・下閉伊郡 7月 1日 1950 国立公園候補地!夏の浄土ヶ浜観光案内(昭和25年7月1日) 昭和25年7月1日の岩手新報より。 宮古の浄土ヶ浜は国立公園候補地だったようで、観光案内が大々的に出されている。 … 続きを読む
d宮古・下閉伊郡 1月 31日 1950 暴風雨で下閉伊郡北部に甚大な被害(昭和25年1月31日) 昭和25年2月3日の新岩手日報より。 1月31日、暴風が吹き荒れて、岩泉町や田野畑村といった下閉伊郡北部で甚大な被害が報告された。 … 続きを読む
d宮古・下閉伊郡 11月 11日 1949 宮古や釜石で南海ホークス対大陽ロビンスの試合?(S24.11.11岩手新報) 広告には宮古高校のグランドや釜石・昭和園グランドでプロ野球の南海ホークス対太陽ロビンスの試合が行われるとある。 しかし「スタメンアーカイブ」を見る限りでは、そんな形跡は見られないのだ。 … 続きを読む
d宮古・下閉伊郡 9月 23日 1949 小さな駅は廃止しますよ!(昭和24年9月3日) 昭和24年9月23日の岩手新報より。 この年の6月1日に発足した日本国有鉄道は、それまでの「鉄道省」というお役所ではなく独立採算制の公共企業体となり、採算を考えなければならなくなった。 それで、人員だけではなく採算の取れない小さな駅を廃止することになった。 その基準は乗降客50人、発着小荷物4トン、… 続きを読む
c久慈・九戸郡 5月 5日 1949 久慈でヤギの四つ子、川井で月の輪のないクマ(昭和24年5月5日) 昭和24年5月5日の新岩手日報より。 こどもの日を記念して、動物ネタを2つ。 1つは、久慈にヤギの四つ子が生まれたと言うこと。 もう一つは、川井村門馬まで月の輪のないツキノワグマがいたと言うこと。 … 続きを読む
d宮古・下閉伊郡 1月 18日 1949 山田線の不通区間の保線用モーターカーへの便乗は禁止(昭和24年1月18日) 昭和24年1月18日の岩手日報より。 この時期、山田線は昭和23年9月16日のアイオン台風で平津戸~蟇目間が不通になっていた。 しかし、職員が復旧作業用に保線用モーターカーを走らせていた所へ、乗客がこっそりそれに便乗させてもらっていたのである。 しかし、そもそも正規の旅客輸送ではなく傷害事故が10件… 続きを読む
d宮古・下閉伊郡 9月 19日 1948 アイオン台風の被害に遭った宮古に宮城県渡波港から救援米が届く(昭和23年9月19日) 昭和23年9月22日の岩手新報より。 アイオン台風の被害に遭った宮古に、宮城県渡波港から救援の米が届いた。… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 12月 1日 1947 学制改革は各校とも単独昇格希望(昭和22年12月1日) 昭和22年12月1日の新岩手日報より。 この時期、各中等学校は「学制改革」を控えており、学校再編が必至だった。 県側は、統合して昇格しようとしているのに対し、各学校側はそれに反対をしていた。 盛岡地区 盛岡中学は、杜陵中学を同行の夜間部として併設しようとしているが反対している。 杜陵中學側も、この闇… 続きを読む
c久慈・九戸郡 4月 9日 1947 第1回統一地方選挙:27歳の村長が誕生したり、短刀で立候補を辞退させたり 自治体の首長を初めて選挙で選ぶことになった第1回統一地方選挙では。岩手県知事に「農民知事」国分謙吉氏が選出されたことで知られているが、町村長の選挙の方はなかなかカオスである。 昭和22年4月9日の岩手日報の記事を見てみると・・・ 下閉伊郡崎山村 下閉伊郡崎山村(現在の宮古市崎山)では、27歳の町長が… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 9月 9日 1946 岩手開拓公社が時局講演会(昭和21年9月9日) 昭和21年9月9日の新岩手日報より。 岩手開拓公社が「時局講演会」と言う戦時中じみた講演会をするのだと言う。… 続きを読む
d宮古・下閉伊郡 7月 1日 1946 樺太からの脱出者に聞く樺太の現状(昭和21年7月1日) 昭和21年7月1日の岩手日報より。 終戦後10か月余り、ソ連に占領された南樺太で生活を続け、昭和21年に年が明けてから脱出した宮古市内の30歳の男性に、終戦後の樺太の様子を聞くことにした。 終戦時の混乱 国境近くの気屯飛行場で警備にあたっていた。 その後敷香まで土工を率いて敷香に行くことを命ぜられた… 続きを読む
d宮古・下閉伊郡 8月 14日 1945 「空襲はありましたが従業員全員無事 東亜鉱工○○精錬所」 昭和20年8月14日新岩手日報には、こんな広告が出ている。 「去ル空襲ニ際シ工場被害軽微…」 広告の主は「東亜鉱工 ○○精錬所」 そもそも東亜鉱工ってどこの会社? と思ったらそれは現在のラサ工業らしい。 ラサ工業といえば宮古か。 軍需工場は機密上、どこそこにあるということを新聞などで言うことはできな… 続きを読む
d宮古・下閉伊郡 7月 10日 1945 代用食、代用醤油のレシピ(昭和20年7月10日) 昭和20年7月10日の岩手日報より。 前年の11月に東京から疎開してきた書道家は毛筆をあっさり捨てて、宮古翼壮松根油工場で働いているという。 その奥さんは、日々の食事のことを常に考えていた。 この際、嗜好本位を捨てて栄養本位で考えないといけない。 道端の草には食べられない草より食べられる草の方が多い… 続きを読む
d宮古・下閉伊郡 1月 8日 1942 戦時下でも津軽石川の川開きは大盛況(昭和17年1月8日) 昭和17年1月7日の岩手日報より。 南部鼻曲がり鮭の名産地・津軽石川の川開きは全国的に有名となっており、東京方面からも見物客が来ていたという。 昭和17年の川開きは1月8日。 魚の魚体は小さいが2万~2万5千本ぐらいは漁獲できるのではないかと予想していた。 また、魚自体が品不足で見物方々食糧獲得で颯… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 11月 28日 1941 記者が古参機「8620型」に同乗して山田線を取材 昭和16年11月28日の岩手日報より。 「国防国家の運勢は鉄道事故の発生によって支障をきたす・・・」という書き出しで始まっているが、鉄道の機関士の仕事がどのようになっているかを取材すべく、記者が機関車に同乗して取材することになったようである。 記事によれば「支線にのみ使用されているという八六二〇型機… 続きを読む
d宮古・下閉伊郡 7月 1日 1939 けふ閉伊川の鮎漁解禁!(S14.7.1新岩手日報) 閉伊川の鮎漁は、東京方面でも知られていたと言う。 その鮎漁が解禁されると言うことで、小さくではあるが報じられていた。 … 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 5月 27日 1937 第32回目の海軍記念日 岩手では(昭和12年5月27日) 5月27日の海軍記念日は、日露の戦役で日本海海戦に勝利したことを記念して制定された。 第32回の記念日となる昭和12年のこの日は、岩手県内で以下のことが行われた。 盛岡市内各小学校でZ旗の掲揚。 Z旗は前日に盛岡海軍部・岩手艦橋会から寄贈されたもの。 岩手県公会堂では講演会と映画会。 講演講師は盛岡… 続きを読む