山田線の赤字はすでに3億円(昭和30年11月16日)

昭和30年11月16日の岩手日報より。

前年、やっとのことでアイオン台風の被害から復旧し全線開通はしたものの・・・

岩手日報の表現をそのまま使えば、「あまりにもみじめであり、栄養失調寸前のうきめに会っているという情ない現状だ」とまで言われる状況であった。

盛鉄局管内には12の路線があったが、営業成績は小本線について下から2番目で、昭和30年の第1四半期の営業係数は209であったという。
そして昭和29年には3億7600万円の赤字を出していたという。

復旧当初、旅客3往復、貨物1往復、混合1往復の5往復のダイヤだった。

しかし昭和19年の全盛期は旅客6往復、貨物17往復、混合1往復であったという。

また、山田線で運ぶ貨物が木材・鉱石と言った賃率の最も低いものであることも影響していたという。

また、盛鉄局管内では駅に荷物を預けて平均4日目には運んでもらえるものが、山田線だと6日1度しか荷物が運ばれないという冷遇を受けているのだという。

また、盛岡から大曲に抜けて日本海に出る「盛曲線」にも期待を寄せていた。

当時、雫石で途切れていた橋場線は、田沢湖線は「盛曲線」として計画されていたようだ。

 

 

 


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