a盛岡・岩手郡・紫波郡 17 11月 1955 山田線の捨て子(昭和30年11月17日) 昭和30年11月17日。 宮古発盛岡行きの411列車が区界駅に到着しようとした時のこと。 車掌が検札していると、小さい女の子が泣いている。 どうやら迷子になったらしい。 親の名前を聞いても、それどころか自分の名前すら言えないらしい。 これはいったいどうしたものか・・・ 盛岡に到着し、とりあえず中央児… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 16 11月 1955 山田線の赤字はすでに3億円(昭和30年11月16日) 昭和30年11月16日の岩手日報より。 前年、やっとのことでアイオン台風の被害から復旧し全線開通はしたものの・・・ 岩手日報の表現をそのまま使えば、「あまりにもみじめであり、栄養失調寸前のうきめに会っているという情ない現状だ」とまで言われる状況であった。 盛鉄局管内には12の路線があったが、営業成績… 続きを読む
d宮古・下閉伊郡 3 8月 1955 宮古の遊園地で小鹿が誕生(昭和30年8月3日) 昭和30年8月3日の河北新報岩手版より。 宮古市末広町の双葉遊園地では鹿がいたようであるが、このほどメスの子鹿を生んだとの由 もともとは、宮古市で前年の5月に宮城県林務部の斡旋で金華山のつがいの鹿を円で購入したのだと言う。 これが子供を産んだのだが、なぜか親鹿は子供を寄せ付けない。 かわいそうに思っ… 続きを読む
d宮古・下閉伊郡 1 8月 1955 山田線の平津戸駅が元気だった頃(昭和30年8月1日) 昭和30年8月1日の河北新報より。 広告欄には「岩手のヒバ」として、山田線平津戸駅前の製材所の広告がだされている。 平津戸駅といえば、令和4年(2022年)3月に全列車通過となる「事実上の駅廃止」となっていたてしまったが、往年は木材の積出駅として賑わったのだ。 事実上の廃止に際し、実際… 続きを読む
c久慈・九戸郡 10 1月 1955 三陸縦貫鉄道と北上山系横断鉄道に国鉄の調査隊 「日本のチベット」と呼ばれていた岩手県の内陸北部に鉄道を通そうという計画は、実にこの頃からあった。 昭和30年1月10日読売新聞より そこで、国鉄は調査隊を派遣して基礎調査を行うことになった。 区間は宮古〜小本〜久慈の「三陸縦貫鉄道」と、沼宮内〜岩泉〜小本の「北上山系横断鉄道」。 この時点では、いず… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 21 11月 1954 山田線が6年ぶりに復旧 昭和23年のアイオン台風で山田線が普通となっていたが、最後まで残っていた腹帯〜平津戸間が、昭和29年11月21日に全線復旧することとなった。 「オイラン列車」の簪も頼もしい。 昭和29年11月11日読売新聞岩手版より そして11月21日の開通式では、宮古駅のすぐ裏にある宮古高校の講堂で国分知事や岡田… 続きを読む
d宮古・下閉伊郡 1 9月 1954 ビキニ「死の灰」で宮古でも原水禁運動(S29.9.1岩手日報) 3月1日のビキニ環礁の「死の灰」は日本社会にショックをもって伝えられた。 この時点で、久保山愛吉さんはご存命中で、危篤が伝えられる状況であった。 そのような中、宮古でも原水禁運動が繰り広げられた。 … 続きを読む
d宮古・下閉伊郡 1 8月 1954 川井村の僻地生徒のために県北バスが無料スクールバス(S29.8.1岩手日報) 川井村の川井中学校では、学区が非常に広く、場所によっては往復4里の道を歩かなければいけない生徒もおり、これでは予習復習する暇もなく、ぐったり寝てしまい、学力の低下や長期欠席につながっていた。 そこで、校長が県北バスに頼み込んで、無料のスクールバスを走らせてくれるように頼んだのである。 その結果、県北… 続きを読む
d宮古・下閉伊郡 12 4月 1954 岩手殖産銀行宮古支店でギャング事件(昭和29年4月12日) 昭和29年4月12日は低気圧が本州を北上し、全国的に大雨となっていた。 そんな日の夕方4時過ぎ、岩手殖産銀行宮古支店では、公金取扱指定金融機関となっている宮古市の金庫から現金を持ってくる作業を行う25歳の職員がまだ帰ってこない。 まさか現金を持ち逃げするような男でもないはずだ。 そう思って雨の中、周… 続きを読む
d宮古・下閉伊郡 10 4月 1954 宮古魚市場で3貫500匁の大マス 宮古魚市場で、体重3貫500匁という大マスが水揚げされ、5,000円で売れたという。 ちなみに以下のサイトによれば、3貫500匁とは13.125kgのことらしい。 昭和29年4月12日読売新聞岩手版より。… 続きを読む
d宮古・下閉伊郡 16 12月 1953 へき地教育の過酷な現実 昭和28年12月16日の読売新聞では、全国のへき地教育の過酷な実態を報じている。 降水で丸木橋が渡れなくなると荷物用のケーブルで通学する(群馬県中里中) 山道が険しいので冬季の通学は部落民が交代で提灯を持っていく(岐阜県) 通学路は波が引いたときに数百メートルを命がけで走る(青森県脇野沢村) 子供が… 続きを読む
d宮古・下閉伊郡 18 5月 1953 下閉伊郡の漁場ではブリ・マグロの最盛期 昭和28年5月13日の読売新聞岩手版より。 下閉伊郡沿岸の漁場ではブリ・マグロの最盛期となっていた。 重茂村漁協の根滝漁場では30~40貫内外の大マグロが2~3本ずつ漁獲したほか、1貫500匁という大きなブリも水揚げされたという。 … 続きを読む
d宮古・下閉伊郡 5 3月 1953 宮古市は公用車にフォードを購入(昭和28年3月5日) 昭和28年3月5日の読売新聞岩手版より。 宮古市では、これまでジープを改装した車を公用車として使っていた。 しかし、戦争用の車だっただけに、乗り心地が悪く、独立した平和国家のお役所やふさわしくないと考えたようで、90万円を叩いて、47年型フォードを1台を買い込んだ。 また、この時期の宮古市は、港湾開… 続きを読む
d宮古・下閉伊郡 3 3月 1953 三陸大津波から20周年で真剣な避難訓練(昭和28年3月3日) 昭和28年3月3日の読売新聞岩手版より。 昭和8年3月3日の三陸大津波からこの日で20周年を迎えることとなった。 津波の曲波風化しているところが、この前の年の津波訓練が終わって間もない昭和27年3月4日には十勝沖地震があり津波に襲われた。 その痕跡も生々しい状態で、沿岸各地では真剣に津波訓練が行われ… 続きを読む
d宮古・下閉伊郡 21 9月 1952 釜石港も宮古港もサンマ漁船でいっぱい(S27.9.21岩手日報) サンマ漁のシーズンとなり、岩手からも船団が漁場を目指す。 釜石港も宮古港も賑わっている。… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 18 9月 1952 岩手の死因は都市は結核、米作値は脳溢血、若者は自殺が多いようだ(昭和27年9月18日) 岩手県民はどのような理由で死ぬのか。 岩手大学農学部小柳達男氏が県内の地域別に死因の調査を行った。 米作地(水沢):10万人 死亡者・・・10万人中213.3人 脳溢血・・・同 38.3人 結核 ・・・ 同 24.4人 乳児栄養不良 ・・・ 同 22.3人 畑作地(福岡(二戸)):7万人 死亡者・・… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 17 9月 1952 盛岡八幡宮の流鏑馬と宮古・横山八幡宮の引船祭り(昭和27年9月17日) 昭和27年9月17日の岩手日報より。 盛岡では八幡宮の秋祭りが行われ流鏑馬が行われたが、宮古の横山八幡宮では引船祭りが開催された。 その写真記事。 … 続きを読む
d宮古・下閉伊郡 16 9月 1952 宮古港の朝(昭和27年9月16日) 昭和27年9月16日の岩手日報より。 「朝の生態」と言うシリーズものの写真記事があったようである。 今回は宮古港で、朝も明けないうちから、あみ等の準備を始めててむ出量に次々と出かけていくことが描かれている。 そして、寮から戻ってこようとする頃には、今度はモッコを担いだ行商の女性たちが港にぞろぞろと来… 続きを読む
d宮古・下閉伊郡 7 9月 1952 全国的に珍しい田老町の防波堤(S27.9.7岩手日報) 囲み記事で、田老町についての紹介がなされている。 この当時はまだ田老町は田老鉱山が操業していた鉱山町であり、また津波避けの防波堤は全国的に珍しかった。 … 続きを読む
d宮古・下閉伊郡 6 5月 1952 岩泉町の町制施行30周年広告(昭和27年5月6日) 昭和27年5月6日の岩手新聞より。 岩泉町は、この年町制30周年を迎えたと言う。 上では、町内の各事業所が名刺広告を出している。 まだ国鉄岩泉線が開業していなかった頃なので、岩泉への足は国鉄バスであり、国鉄バス岩泉営業所が広告を出している。 また、県北バスの本社があった頃で、岩泉町内に路線がないにも… 続きを読む
b二戸・二戸郡 5 1月 1952 1市5郡で供米完了(昭和27年1月5日) 昭和27年1月5日の岩手新報より。 この当時は、米は完全に国で管理していたので、米を生産したら必ず一旦国に収めるようになっていた。 これが米の供出である。 そしてそれは、自治体ごとに統計されていた。 この時点で、その供出が完了していたのは、釜石市・気仙郡・胆沢郡・稗貫郡・上閉伊郡・下閉伊郡・二戸郡の… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 30 11月 1950 早くやってほしい施設15傑(昭和25年11月30日) 昭和25年11月30日の岩手新報より。 岩手新報では「早くやってほしい施設」に関して投票をやっていたようだ。 そして11月30日現在の15傑が出たのである。 … 続きを読む
d宮古・下閉伊郡 1 7月 1950 国立公園候補地!夏の浄土ヶ浜観光案内(昭和25年7月1日) 昭和25年7月1日の岩手新報より。 宮古の浄土ヶ浜は国立公園候補地だったようで、観光案内が大々的に出されている。 … 続きを読む
d宮古・下閉伊郡 31 1月 1950 暴風雨で下閉伊郡北部に甚大な被害(昭和25年1月31日) 昭和25年2月3日の新岩手日報より。 1月31日、暴風が吹き荒れて、岩泉町や田野畑村といった下閉伊郡北部で甚大な被害が報告された。 … 続きを読む
d宮古・下閉伊郡 11 11月 1949 宮古や釜石で南海ホークス対大陽ロビンスの試合?(S24.11.11岩手新報) 広告には宮古高校のグランドや釜石・昭和園グランドでプロ野球の南海ホークス対太陽ロビンスの試合が行われるとある。 しかし「スタメンアーカイブ」を見る限りでは、そんな形跡は見られないのだ。 … 続きを読む
d宮古・下閉伊郡 23 9月 1949 小さな駅は廃止しますよ!(昭和24年9月3日) 昭和24年9月23日の岩手新報より。 この年の6月1日に発足した日本国有鉄道は、それまでの「鉄道省」というお役所ではなく独立採算制の公共企業体となり、採算を考えなければならなくなった。 それで、人員だけではなく採算の取れない小さな駅を廃止することになった。 その基準は乗降客50人、発着小荷物4トン、… 続きを読む
c久慈・九戸郡 5 5月 1949 久慈でヤギの四つ子、川井で月の輪のないクマ(昭和24年5月5日) 昭和24年5月5日の新岩手日報より。 こどもの日を記念して、動物ネタを2つ。 1つは、久慈にヤギの四つ子が生まれたと言うこと。 もう一つは、川井村門馬まで月の輪のないツキノワグマがいたと言うこと。 … 続きを読む