a盛岡・岩手郡・紫波郡 7月 2日 1939 岩手中学を卒業した6人が大陸開発に張り切る(S14.7.2新岩手日報) この時期、大陸への「進出」が盛んに行われていたが、岩手中学を卒業した6人もハルビンで頑張ることにした、というニュース。… 続きを読む
l全県 7月 1日 1939 愛国婦人会は銃後の母や未亡人に相談会 昭和14年7月1日の岩手日報より。 日中戦争が激化している昨今、愛国婦人会岩手県支部では戦地に大黒柱を送っている、または戦死した留守宅の夫人を相手に相談会を開催するという。 7月中旬から8月にかけて、盛岡市や県下30町村で銃後家庭強化相談会を行うという。 &… 続きを読む
l全県 7月 1日 1939 警察「ガソリンの統制破りしやがって!配給は無しだ!」→製糸会社「春繭の集荷シーズンに御無体な…」 昭和14年7月1日の岩手日報より。 岩手県内の県是製糸などがガソリン統制を破って16,000ガロンのガソリン密売事件をやらかした。 県是製糸側は「規制前に契約したものが規制後に到着しただけ。別に密売のつもりはなかった」と言うが、警察経済保安課は「同情する余地はない」と、ガソリン5,000ガロンの特配… 続きを読む
m県外・参考 7月 1日 1939 厚生省「夏はノータイ!男子は丸坊主!女子はパーマ禁止!」 昭和14年7月1日の岩手日報より。 日中戦争が長期化していたこの時期。精励委員会呼称の生活刷新運動に呼応して厚生省では実行要目10か条を設けて省内生活刷新にこれ努めることになった。 各種会合における時間励行 皇室関係者及び神社制式参拝以外はモーニング着用廃止 中元歳暮の贈答廃止 挨拶状、案内状などの… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 7月 1日 1939 盛岡から東京までの130里を自転車で踏破しよう(S14.7.1新岩手日報) 盛岡から東京までの130里を自転車で踏破して、明治天皇の東北巡幸の足跡をたどるという気宇壮大なツアーが開催されるという。 7月18日に三日間かけて東京に到着して、帰りは2日で済ませているようだが、これは列車か何かで帰ると言うことをだろうか。 … 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 8月 7日 1938 盛岡警察署「物資統制令とはいうけど何が禁制品だって?」 昭和13年8月7日の岩手日報より。 当時の盛岡市における「物価のお目付け役」は、盛岡警察署経済保安係主任であったという。 物資統制新法令で取り締まりの対象は増えたものの、警察官にはどれが禁制品なのかさっぱりわからない。 それで、禁制品の見本を取り寄せて警察署内で鑑定会を行うことになった。 集められた… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 8月 7日 1938 日中戦争の長期化による燃料節約のため、盛岡の盆火は中止します 昭和13年8月7日の岩手日報より。 盛岡ではお盆になると、各戸で焚火供養をしていた。 しかし日中戦争の長期化により、盛岡市内各町内会では燃料節約の国策に沿う観点から毎年行ってきた盆火を中止する旨申し合せた。 ただし、町内会によっては各戸で行っていたものを1か所にまとめて行う、あるいはは初盆を迎える家… 続きを読む
l全県 4月 28日 1938 南部鉄瓶は不要不急!軍需工業に転換せよ!(S13.4.28新岩手日報) 商工省は、不要普及の製品の製造を品目ごとに制限して、軍需工業に転換する方針にしたという。 … 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 4月 25日 1938 盛岡陸軍病院は李王妃方子女王の傷病兵慰問に備え準備万端(S13.4.25新岩手日報) この当時の女性皇族の大きな仕事として「傷痍軍人の顕彰」「傷病兵慰問」があった。 梨本宮の第1王女であり李王垠の妃となった方子女王は、盛岡陸軍病院に慰問することとなり、その準備に大忙しだった。・ … 続きを読む
h水沢・江刺・胆沢郡 4月 20日 1938 江刺郡広瀬村「仙台逓信局さん!せめて役場と郵便局だけでも電話を!」 昭和13年4月20日の岩手日報より。 江刺郡広瀬村では、バス路線からも遠ざけられ、電話も無いという状態だった。 それで、役場では昭和13年度の予算で村役場と郵便局に電話機を付けることにした。 そして村長は前日19日に仙台逓信局を訪れ「回線を引いてほしい」と請願したのであった。 … 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 4月 20日 1938 厚生省「戦時でもあるし性病予防対策に診療所を!」→盛岡市では…(昭和13年4月20日) 昭和13年4月20日の岩手日報より。 厚生省は、岩手県を通じて「戦時疾病に備え花柳病予防の診療所を設置するように」と、盛岡市に要請してきたのだという。 これに対し、盛岡市では内丸の診療所を拡張設備することで対応することにしたようである。 そこで、診療所の裏手の県経済部長官舎を明け渡してほしいと県に交… 続きを読む
e釜石・遠野・上閉伊郡 4月 18日 1938 自治制発布50年記念式典で全国の町村長の総代として上閉伊郡金沢村長が挨拶 昭和13年4月18日の読売新聞より。 明治21年(1888年)に町村制が発布され、昭和13年で50周年を迎えることとなった。 そこで、内務大臣の招待を受けた69町村、個人352名の総代として、明治25年から46年の長きにわたって村長の座にあった、岩手県上閉伊郡金沢村の兼沢福次郎村長(77歳)が挨拶を… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 3月 7日 1938 盛岡~日詰のバスを木炭自動車に改造 昭和13年3月7日の岩手日報より。 日中戦争も泥沼化の様相を呈し「ガソリンの一滴は血の一滴」の時代になっていた。 それで東京市のバスの半分はすでに木炭バスに改造され、盛岡~日詰のバスを経営する盛岡市内丸の佐藤自動車店でも、1台を木炭自動車に改造する計画であるという。 また、繋温泉に行くバスも木炭車に… 続きを読む
h水沢・江刺・胆沢郡 3月 6日 1938 女工契約を装い前渡金を詐取した村役場吏員(昭和13年3月6日) 昭和13年3月6日の岩手日報より。 江刺郡伊手村の35歳の書記は出稼ぎ指導員でもあったが、女工の募集に来た滋賀県の近江絹糸の募集員に、村内の2名の少女(17歳、16歳)と勝手に契約を結び、前渡金70円を自分が詐取したということで、執務中に岩谷堂警察署に連行されることとなった。 ところがこの書記、この… 続きを読む
h水沢・江刺・胆沢郡 3月 5日 1938 江刺郡稲瀬村に「精農塾」 昭和13年3月5n日の岩手日報より。 江刺郡稲瀬村に、この年度の経済厚生助成事業として、稲瀬小学校の隣に「精農塾」を設置することとした。 これは、青年修養施設として、青年団員や青年学校生徒を合宿させ、農民精神の高揚や村有地の開墾事業を行わせるというもの。 精農塾には、農具はもとより荷車、農薬といった… 続きを読む
l全県 3月 5日 1938 「国策に順応して誕生した日本の自動車ニッサン」! 昭和13年3月5日の岩手日報の広告欄より。 「国産に順応して誕生した日本の自動車ニッサン」と大々的に広告を打っている。 この時は日中戦争期、「国策に順応している」ことが充分に惹句になりうる時代に突入していた。 … 続きを読む
b二戸・二戸郡 12月 13日 1937 ズーズー弁の軍事電報「メイヨノセンシヨウシ」 昭和12年12月13日の東京朝日新聞より。 支那事変で日本軍が南京などで戦闘していた頃のこと。 二戸郡浄法寺村から出征したある一等兵の留守宅に電報が来た。 「メイヨノセンシヨウシ」 つまりこれは「名誉の戦傷死」ということだ。 家族は写真を仏壇に飾って拝んだ。 ところがそれは「名誉の戦傷す」だったのだ… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 6月 10日 1937 北海道庁長官に栄転した石黒知事を祝う県青年学校教員養成所生徒の血書文 昭和12年6月10日の岩手日報より。 当時、県知事は官選であり、内務省の官僚であったから、数年で別の任地に転出するのが普通であった。 現在でいう県警察本部長のようなものであると考えれば丁度いいだろう。 そのような中でも、第18代石黒英彦知事は、昭和6年12月18日に奈良県知事から転任し、以降昭和12… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 6月 9日 1937 貧しい傷痍軍人に対し授産の養鶏講習 昭和12年6月9日の岩手日報より。 支那事変で戦争が発生すれば傷痍軍人が発生する。 傷痍軍人を一生職もなく遊ばせておくほどの国力は日本にはなかった。 だから何かをして働いてもらわないといけない。 それで、盛岡連隊区司令部職業補導部では、名誉の戦傷を受け貧困に陥っている家庭の為に、6月15日~21日に… 続きを読む
e釜石・遠野・上閉伊郡 6月 1日 1937 市制間もない釜石市に散水車お目見え 5月5日に盛岡市に次いで2番目に市制したばかりの釜石市で、6月1日に市章入りの散水車がお目見え。 未舗装の道路が多かった時代、砂塵止めのために散水車が必要であった。 … 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 5月 27日 1937 第32回目の海軍記念日 岩手では(昭和12年5月27日) 5月27日の海軍記念日は、日露の戦役で日本海海戦に勝利したことを記念して制定された。 第32回の記念日となる昭和12年のこの日は、岩手県内で以下のことが行われた。 盛岡市内各小学校でZ旗の掲揚。 Z旗は前日に盛岡海軍部・岩手艦橋会から寄贈されたもの。 岩手県公会堂では講演会と映画会。 講演講師は盛岡… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 5月 19日 1937 海軍記念日には盛岡市内各小学校でZ旗を掲揚します(S12.5.19岩手日報) 5月27日は海軍記念日。 それで、盛岡市内各小学校ではその日に海軍のZ旗を掲揚するという手筈になっていた。 ちなみに、なぜ「Z旗」なのかというと、Zはアルファベットの一番最後で「この戦いに敗れたら後はない」という意味合いなのだという。 … 続きを読む
e釜石・遠野・上閉伊郡 5月 16日 1937 明治神宮で賽銭泥という不敬を働いた男の親は・・・ 明治神宮は明治天皇を祭る畏き神域。 その明治神宮で賽銭泥棒という大それた不敬をしでかした30歳の男は、岩手県のどこだかの街の出身だった。 郷里に住むその男の父親だけでなく、その町の町長までが東京に出て明治神宮でお詫び行脚である。 明治神宮の神域で不敬を働くということは、それほどの大それたことであった… 続きを読む
e釜石・遠野・上閉伊郡 10月 31日 1936 岩手軽便鉄道の買収額は162万7000円(昭和11年10月31日) 昭和11年11月1日の岩手日報より。 釜石線の花巻から足ヶ瀬までは、もともとは岩手軽便鉄道であり、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」のモデルになった路線でもある。 戦前に、ナローゲージのまま鉄道省に買収されて「釜石西線」になるのだが、その時の買収額は1,627,000円であったと言う。 後は、前田鉄道大臣の… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 8月 1日 1936 警察練習所のお台所拝見(昭和11年8月1日) 昭和11年8月1日の岩手日報より。 盛岡警察署の西隣にあったという警察練習所の食事風景であるという。 盛岡警察署の西隣というと、現在の岩手県警察本部のあるあたりだろうか。 現在、岩手県警察学校は青山にある。 … 続きを読む
e釜石・遠野・上閉伊郡 3月 7日 1935 釜石町に大火が発生し22戸が全焼(昭和10年3月7日) 昭和10年3月8日の岩手日報より。 3月7日の午前1時過ぎ、釜石町大渡3丁目から発火、22戸全焼したと言う火災が発生した。 出火と同時に、町役場では吏員が非常召集し救護に出動した。 そして、焼け出された避難民に炊き出しを行い、20日分の食料と、罹災資金20円、被覆は1人につき5円、学用品は3円を配給… 続きを読む
l全県 3月 3日 1935 事変従軍徽章は県内3000名(S10.3.3岩手日報) 「今次事変の従軍者」・・・とあるが、この時点の「事変」とは、昭和6〜7年の満州事変だろうか。 ともかくもその事変に従軍したのが岩手県内では3000名であるとのことで、その徽章が届いたと言うニュース。… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 3月 3日 1935 三陸大津波2周年で県庁で避難演習(昭和10年3月3日) 昭和10年3月3日の岩手日報より。 昭和8年3月3日、三陸大津波は岩手県にも甚大な被害を及ぼした。 そこから2年が経過し、岩手県庁では避難演習をしたのである。 想定としては「上閉伊郡釜石港に津波の襲来があり、本県海岸一帯人畜家屋の被害甚大、盛岡市内赤十字病院裏手より発火し目下北風にあおられて延焼中」… 続きを読む
e釜石・遠野・上閉伊郡 3月 3日 1935 上閉伊郡金沢村では「村民絶対禁酒」(昭和10年3月3日) 昭和10年3月3日の岩手日報より。 上閉伊郡金沢村では、更生村民大会において、村民は絶対禁酒で、この決まりを破ったら冷害の義援金を交付しないと言う決議を行った。 これは、同様に例外に苦しんでいた県内でも珍しいことであった。 … 続きを読む