e釜石・遠野・上閉伊郡 1月 1日 1961 釜石にも進学専門の強力高校を!(S36.1.1岩手東海新聞) 昭和36年を迎え、釜石市内の児童・生徒たちが座談会を開いている。 やはり当時からも受験というのは重いテーマだったようだ。 県都・盛岡にある盛岡一高は「予備校化」と評価されている。… 続きを読む
e釜石・遠野・上閉伊郡 9月 23日 1960 釜石高校は県内一の老朽校舎(S35.9.23岩手東海新聞) 釜石高校の校舎は戦時中に建てられ、県内一の老朽校舎であったという。 それで高校を2つにしてはどうかという案も浮上していた。 (結局、その後釜石北高が開港するわけだが)… 続きを読む
i一関・西磐井郡 7月 8日 1960 一関二高でアンケート「岸内閣を支持するか」(昭和35年7月8日) 昭和35年7月8日の岩手報知より。 一関二高で「岸内閣を支持するか」アンケートをとったところ、「支持しない」が上回った模様。… 続きを読む
i一関・西磐井郡 7月 5日 1960 一関一高の放火事件で夜警団が増えた結果…(昭和35年7月5日) 昭和35年7月5日の岩手報知より。 この年の6月末、一関一高が放火で焼失した。 この時点では、犯人はまだ上がっていなかったので、一関市内の各町内会では夜警団を結成して警戒して歩くことになったのである。 そうすると、各町内の夜警団が、ヤアヤアと声を交わしている風景が頻繁となったのである。 そのたびに犬… 続きを読む
h水沢・江刺・胆沢郡 3月 3日 1960 水沢中学校では働いた金でブラスバンド(昭和35年3月3日) 昭和35年3月3日の岩手日報より。 水沢中学校では、生徒自ら働いた金でブラスバンドを結成したという。 … 続きを読む
l全県 3月 2日 1960 学校用務員に身分保証がなかった(昭和35年3月2日) 昭和35年3月2日の岩手日報より。 投書欄では、この当時の学校用務員の身分保証のなさを嘆いている。 当時は学校長の裁量で採用していたようだ。… 続きを読む
l全県 1月 17日 1960 高校入試の競争倍率は盛工機械科がトップ(昭和35年1月17日) 昭和35年1月17日の岩手日報より。 昭和35年度の公立高校一般入学試験者の願書受付は、1月25日から2月1日までに行われる予定であった。 これに先立って、志願予定数が16日に各学校長から県教育委員会に報告された。 例年によって、都市部の実業科が高騰しており、特に工業や商業が高倍率であった。 特に、… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 9月 29日 1959 伊勢湾台風なのに中体連の大会を強行 昭和34年9月29日の岩手日報より。 伊勢湾台風は岩手県内にも被害を及ぼした。 ところが、そのような中、盛岡市中体連は県営グランドで大会を中止しなかったのだという。 26日当日、盛岡市内は朝から風が強く激しい雨だった。 選手たちは待機中は傘を差していたとはいえ、寒さに震えながら、ずぶ濡れで競技をして… 続きを読む
e釜石・遠野・上閉伊郡 8月 23日 1959 大槌高校に硬式野球部が誕生(昭和34年8月23日) 昭和34年8月21日の岩手東海新聞より。 大槌高校にはそれまで、定時制の軟式野球部しかなかった。 しかし、甲子園の高校野球や富士鉄釜石の都市対抗野球に刺激され、硬式野球部創部の機運が高まってきた。 それで、8月23日13時から大槌高校で、講演会準備協議会が設置されることになった。 発起人は以下の通り… 続きを読む
e釜石・遠野・上閉伊郡 8月 11日 1959 「釜石第三中学校」計画(昭和34年8月11日) 昭和34年8月11日の岩手東海新聞より。 釜石市教育委員会では、釜石市立図書館で定例委員会を開催した。 マンモス化している釜石一中を二分して18学級程度の中学校にする。 尾崎中学校と平田中学校を合併して新設中学校を設立する。 これに関しては、文部省からも近日技官が来て調査するということであった。 &… 続きを読む
e釜石・遠野・上閉伊郡 5月 17日 1959 釜石一中で運動会(昭和34年5月17日) 昭和34年5月19日の岩手東海新聞より。 釜石一中の運動会は5月17日に開催された。 この日は雨だったようで、開会式は2時間遅れ11時となった。 種目は43種目あり、中には「ミサイルレース」「仙人峠開通記念」などと伊種目もあったようである。 この年の9月には、遠野や花巻に直通する仙人トンネルの開通が… 続きを読む
e釜石・遠野・上閉伊郡 5月 12日 1959 「県内一の老朽校舎」戦時建築の釜石高校を改築して(昭和34年5月12日) 昭和34年5月22日の岩手東海新聞より。 釜石高校の校舎は「県内一の老朽校舎」と言われていた。 そんな老朽校舎はどれだけ古いのか? 大正6年に建築され「白堊城」と呼ばれた盛岡一高の校舎より古い? 釜石高校の校舎は昭和18年の建築で築16年。 「老朽化」と言うほどではないが、昭和20年の艦砲射撃にも遭… 続きを読む
i一関・西磐井郡 3月 30日 1959 集団就職の第4陣が一ノ関駅を出発(昭和34年3月30日) 昭和34年3月31日の岩手報知より。 中学校を卒業して集団就職する若者の第4陣が、3月30日19時51分、臨時列車で一ノ関駅を出発した。 人数としては、一関職安管内で230名余り、水沢・千厩職安管内も合わせると600名余りとなったという。 これに先立って、14時から就職者を一関小学校の講堂に集め、菅… 続きを読む
i一関・西磐井郡 3月 28日 1959 一関の夜間私立高校・関城工業高校が二次募集(昭和34年3月28日) 昭和34年3月28日の岩手報知より。 一関の私立夜間高校である関城工業高校が二次募集をかけている。 経営母体は一関学院なので、後年の一関商工高校、令和4年現在の一関学院高校となる。 同じ経営母体の一関商業高校と合併して「一関商工高校」となるのは昭和38年のこと。 この時点で、公立の一関工業高校は開校… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 3月 24日 1959 県教育会館で中卒就職者の激励会(昭和34年3月24日) 昭和34年3月25日の河北新報岩手版より。 この年に中学校を卒業して社会に出る就職者の為に、3月24日13時から県教育会館で「就職者激励会」が行われた。 就職者700名、県職安課長、山本盛岡市長など来賓が多数列席した。 山本盛岡市長からは「立派な社会人になるよう修行してもらいたい」という激励のあいさ… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 2月 24日 1959 初めての公認予備校「竜沢予備校」が開校(昭和34年2月24日) 昭和34年2月25日の河北新報岩手版より。 昭和28年ごろから、「竜沢学習研究会」が盛岡市内の浪人生を相手に授業をしていた。 それを、父兄や生徒の要望を入れ、県公認の「竜沢予備校」として2月24日に開校の運びとなったものである。 この時点で生徒は大学受験組が6名、高校受験組が200名いた。 3月の新… 続きを読む
j東磐井郡 2月 23日 1959 東山町の長坂中学校では修学旅行の旅費を稼ぐためにかくし芸大会(昭和34年2月23日) 昭和34年2月23日の河北新報岩手版より。 東山町の長坂中学校では、毎年5月に東京・日光方面に湯修学旅行に行くのが常であった。 しかし、旅費は1人当たり4千円、服やカバンを揃えると6~7千円は必要であり、この負担に耐えられない1割ぐらいの生徒は、修学旅行に参加できなかった。 そんなまず牛居生徒達でも… 続きを読む
i一関・西磐井郡 10月 5日 1958 一関の高校生にアンケート「高校の大学予備校化をどう思う?」(昭和33年10月5日) 昭和33年10月5日の岩手報知より。 大学の受験戦争は、年々激化しており、予備校に1年か2年通える事はやむを得ないと言う価値観が広がっていた。 高校としても、何とか大学に進めたいと学力コンクールや模擬テストを行って学力の向上に努めており、この結果高校は大学の予備校化していると言われるようになった。 … 続きを読む
i一関・西磐井郡 9月 6日 1958 2学期の始まった一関中学校(昭和33年9月6日) 昭和33年9月6日の岩手報知より。 ここでは、一関中学校にも2学期が始まった旨を報じている。 この時期、県内では勤務評定反対闘争(勤評闘争)、道徳教科組み入れなどで、教員組合がやたら逃走していた。 道徳教科組み入れなどで、教員組合がやたら逃走していた。 しかし、生徒もこの先の進学や就職で忙しいと言う… 続きを読む
i一関・西磐井郡 7月 6日 1958 一関地区の中学校では免許外担当授業の教員が半数以上(昭和33年7月6日) 昭和33年7月6日の岩手報知より。 岩手県教組西磐井支部では、勤評と定員増の運動資料とするために、中学校の免許外教科の担当状況調査を進めていた。 その状況は、中学校教員の240人中129人が免許外を担当しており、割合が53%に上っていた。 週の時間数はのべ1,142時間で、免許外教科はのべ711科目… 続きを読む
h水沢・江刺・胆沢郡 5月 20日 1958 水沢女子高の教諭が関東以北で初めてのオランダミミナグサを発見(昭和33年5月20日) 昭和33年5月20日の岩手日報より。 植物研究家でもある水沢女子高の教諭が、水沢警察署裏の北常盤踏切で「オランダミミナグサ」を発見したという。 このオランダミミナグサは、本来はヨーロッパにだけ生えている雑草であるところ、戦後は東京や横浜でも存在が確認されていた。 これは、戦後になってヨーロッパとの貿… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 4月 25日 1958 盛岡市立高校が加賀野に移転 下小路にあった盛岡市立高校がそれまでの校地を下小路中学校に譲渡し、加賀野に移転することになった。 盛岡市立高校は昭和24年に、盛岡市立女子高校と盛岡市立女子商業高校を合併して発足した女子校であった。 これが共学化するのは、この翌年の昭和34年からである。 共学化を見越した校舎の移転だったのであろう。… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 4月 19日 1958 岩手でも日食を観測できた 昭和33年4月19日の日食は、Wikipedia仁も独立して項目がある。 日本の南の報では、金環食を観測することができたようである。 これが岩手ではどうだったか・・・ 盛岡でも日食を観測できるとあり、盛岡一高の天文部も、盛岡地方気象台の屋上に陣取って午前中から大張り切りであった。 そして13時11分… 続きを読む
c久慈・九戸郡 2月 7日 1958 種市中・平内中・角浜中が統合案(S33.2.7デーリー東北) 種市町内の種市中学校・平内中学校・角浜中学校の統合計画が持ち上がっていた。 県境に一番近い角浜中学校では、県境を越えて階上町の道仏中学校通っている生徒もおり、賛成することにしたのだという。… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 1月 30日 1958 岩手県立美術工芸高校・・・? 昭和33年1月30日の読売新聞より。 岩手県内の全日制公立高校の出願状況がまとまったことを報じている。 大まかにみると、市部の名門校が1.5倍前後の高倍率となっている。 そして、郡部の高校は定員割れを起こしている。 ところで、この中で「美術工芸高校」というのが気になる。 30人の定員に16人の出願。… 続きを読む
c久慈・九戸郡 1月 1日 1958 久慈郵便局では学生アルバイトが年賀状配達(昭和33年1月1日) 昭和33年1月4日のデーリー東北より。 久慈郵便局では、元日の年賀状配達のアルバイト21名が集合して、局長に激励され市街地各地で配達をスタートした。 高校生18名、大学生3名であったという。 … 続きを読む
c久慈・九戸郡 11月 1日 1957 久慈高校にチェーンソー導入(S32.11.1デーリー東北) 久慈高校は大正9年に久慈農林学校として開校し、当時は普通科も農林科も併設していた。 その久慈高校に、チェーンソーを導入したというニュース。 … 続きを読む
d宮古・下閉伊郡 10月 27日 1957 宮古二中の生徒が文通で八戸を紹介(昭和32年10月27日) 昭和32年10月27日のデーリー東北より。 宮古二中の生徒が、全国と文通をしていたが、その中で、八戸市教育委員会にも手紙を送ってきたようで、八戸を水産都市として紹介してどうたらこうたらと言う記事。 … 続きを読む