e釜石・遠野・上閉伊郡 1月 8日 1956 遠野に平和大観音が建立(昭和31年1月8日) 昭和30年12月27日の岩手日報より。 後年、あんべ光俊の「遠野物語」で〽月夜の晩の福泉寺~と歌われた遠野市の福泉寺では、戦没者供養と戦災復興を祈願して、信者3000人の手により平和大観音像が慈眼寺の山頂に建立されることとなった。 高さは43尺(13メートル)であり、台座も含めると実に54尺(16.… 続きを読む
e釜石・遠野・上閉伊郡 1月 6日 1956 釜石には昭和31年の時点で温水プールがあった 昭和31年1月6日の河北新報より。 東北水連と釜鉄真道会が共催で、ヘルシンキオリンピックで800mに出場した谷川禎次郎選手を招き、釜石製鉄所の鈴子プールで水泳教室を開催することとなった。 県内の高校・中学校から60人が参加した。 1月とはいっても寒中水泳というわけではなく、気温は4℃で… 続きを読む
e釜石・遠野・上閉伊郡 1月 1日 1956 国際港としてのびゆく釜石港(昭和31年1月1日) 昭和31年元旦の河北新報岩手版より。 釜石製鉄所の昭和30年の輸出総額は16万トンで70億円であった。 新春そうそうの1月2日には、日本商船の興名丸(7000トン)が釜石に入港し、アルゼンチン向けにスラブやビレットを積み出すという。 また、松岡開運の松福丸(6890トン)もまた、アルゼンチン向けにビ… 続きを読む
e釜石・遠野・上閉伊郡 11月 29日 1955 大凶作の時の支援のお礼にと遠野から東京に鹿踊り(昭和30年11月29日) 昭和30年11月29日の岩手日報より。 昭和9年は伝説的な凶作であった。 秋になっても稲は青立ちのまま実らず、娘を売る農家が続出。 それで東京はじめ全国からの支援が集まったのである。 そして21年後の昭和30年、稲は史上まれにみる豊作となり、また県内有数の酪農地帯となり、あの凶作の時の恩に報いる時が… 続きを読む
e釜石・遠野・上閉伊郡 11月 20日 1955 新米のシーズンは担ぎ屋のシーズン 昭和30年11月20日の岩手日報より。 遠野地方の穀倉地帯では、新米のシーズンになると、釜石や大槌あたりから列車に乗って担ぎ屋が大挙して来るという。 農家としても、供米よりも現金化が早いので、1升95円程度の安値でも売るのだという。 さながら、釜石線の列車は「担ぎ屋列車」の様相を呈していたという。 … 続きを読む
e釜石・遠野・上閉伊郡 11月 7日 1955 釜石で「ゴミ人夫33年」厚生省表彰 昭和30年11月7日の岩手日報より。 清掃人夫として33年間釜石市に奉職してきた53歳の男性が、厚生省所管の全国清掃協会に表彰されるという。 この人は釜石市役所衛生課におり、目が悪くて徴兵検査に不合格となり、一念発起して「人が嫌がることをやろう」と、当時請負制であったゴミさらいを始めたのだという。 … 続きを読む
e釜石・遠野・上閉伊郡 11月 3日 1955 遠野市の僻地・大出に中学校の分校を設置 昭和30年11月3日の岩手日報より。 この頃の岩手県においては、僻地で学校まで何キロも歩かなければいけない、農作業で忙しいなどの理由で長欠している生徒が多くいた。 特に、体が成長し一人前の働き手とみなされた中学生であればなおのことであった。 この遠野市大出もそのような地区であり、この地区の中学生は何… 続きを読む
e釜石・遠野・上閉伊郡 11月 1日 1955 釜石自動車教習所では夜間部を開設!(昭和38年11月1日) 昭和38年11月1日の岩手東海新聞より。 釜石自動車教習所では、夜間部を開設するという。 … 続きを読む
e釜石・遠野・上閉伊郡 8月 25日 1955 マグロやメカで埋まる豊漁の釜石港(昭和30年8月25日) 昭和30年8月25日の河北新報岩手版より。 釜石港の沖合のスルメ、鯖、マグロ、メカ漁は最盛期に入っており、水揚げ高は700~800万円にも達していたという。 8月22日は回来船や地元船のスルメやサバ船で43400貫あまり、金額にして900万円であったという。 ところで、ここで言う「メカ… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 8月 13日 1955 盛岡~陸前高田の直通バスは翌月実現か(昭和30年8月13日) 昭和30年8月13日の河北新報岩手版より。 この時点で、岩手中央バスが盛岡~遠野間に、国鉄バスが遠野~陸前高田に路線があった。 この2路線を統合して、中央バスと国鉄バスが盛岡から陸前高田までを通しで運行できるように陸運局に陳情をしていたのである。 これを受け、運輸省から担当者が来県し、実現近しとの見… 続きを読む
e釜石・遠野・上閉伊郡 8月 31日 1954 上閉伊郡上郷村に「もぐり橋」竣工(昭和29年8月31日) 昭和29年8月31日の読売新聞岩手版より。 上閉伊郡上郷村平倉地内の早瀬川にコンクリートのもぐり橋「本宮橋」が完成した。 幅2メートル、長さ112メートルで、欄干も無く冠水すれば通行止めになってしまうが、木橋より安上がりであるという。 … 続きを読む
e釜石・遠野・上閉伊郡 6月 29日 1954 釜石に多い身体障害者(昭和29年6月29日) 昭和29年7月1日の岩手日報より。 6月29日、盛岡日赤病院の眼科医長・耳鼻科医長・整形外科医長が身体障害者巡回検診班を組織して釜石市を訪れ、市民に対し検診を行った。 この中で多かったのは、昭和20年の釜石艦砲射撃で手足を失った人が多かったこと。 そして、遺伝性の疾患である網膜色素変性症による視覚障… 続きを読む
e釜石・遠野・上閉伊郡 4月 23日 1954 釜石税関支署に新鋭監視艇「五葉」配備 釜石税関支署では警備艇「五葉」(14トン)を配備した。 長さは12メートルで、最大速力は時速15ノットであるという。 昭和29年4月23日読売新聞岩手版より。 … 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 4月 16日 1954 この時期の不良少女の実例(昭和29年4月16日) 昭和29年4月16日の岩手日報より。 春になると誘惑が増えるので注意を呼びかけている。 特に女子は家庭裁判所に装置された後でも自分を曲げない頑固な例が多いという。 岩手県内の不良少女の例は以下の通りであるという。 盛岡のA子(19)。中学校の頃からスクエヤー・ダンスで4~5人の男と関係を持っていたと… 続きを読む
e釜石・遠野・上閉伊郡 4月 16日 1954 ウニは魚市場を通さず直接取引で 昭和29年4月16日の読売新聞岩手版より。 ウニの採取は釜石湾の初夏の風物詩であったという。 4月1日が口開けで、11日から水揚げされたが浜相場はカラ付きで70~80円であったという。 この年から、ウニの採取者が零細漁民であるということから釜石魚市場を通さず直接販売が認められ、漁民は大喜びだったとい… 続きを読む
e釜石・遠野・上閉伊郡 12月 1日 1953 釜石では魚の加工施設が不足(S28.12.1岩手日報) 釜石は製鉄の街であるとともに水産都市であるが、魚の加工施設が少ないことが問題になっていたようである。… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 3月 1日 1953 抗日の記念日「三一節」に盛岡・釜石・黒沢尻の在日朝鮮人が集会(昭和28年3月1日) 韓国の祝日には「三一節」というのがある。 これは、朝鮮半島が日帝に支配されていた大正8年(1919年)3月1日、京城(ソウル)のパゴダ広場で抗日蜂起が起こったことを記念したものである。 そんな朝鮮人にとって、昭和20年8月15日とは「終戦」ではなく「光復」であり、日帝からの自由を祝うべきものだったの… 続きを読む
d宮古・下閉伊郡 9月 21日 1952 釜石港も宮古港もサンマ漁船でいっぱい(S27.9.21岩手日報) サンマ漁のシーズンとなり、岩手からも船団が漁場を目指す。 釜石港も宮古港も賑わっている。… 続きを読む
e釜石・遠野・上閉伊郡 9月 18日 1952 わが町わが村「上閉伊郡金沢村」(昭和27年9月18日) 昭和27年9月18日の岩手日報より。 手前が役場、左側が中学校、向かい側が診療所に小学校 「わが町わが村 戦後版」というシリーズ物の記事は、今回は上閉伊郡金沢村。 現在の大槌町金沢地区となる。 昭和9年の大凶作では犬や猫まで食い、ネズミまでいなくなったと全国紙に報じられた「日本一の貧村」であったとい… 続きを読む
e釜石・遠野・上閉伊郡 9月 7日 1952 興産相互銀行(現:北日本銀行)大槌支店新築完成!(昭和27年9月7日) 昭和27年9月7日の岩手日報の広告欄より。 興産相互銀行の大槌支店の新店舗が落成し営業を開始したという広告が出ている。 興産相互銀行とはのちの北日本相互銀行で、令和3年現在でいえば北日本銀行。 … 続きを読む
e釜石・遠野・上閉伊郡 9月 4日 1952 モダーンな遠野郵便局が落成 昭和27年9月4日の岩手日報より。 遠野郵便局庁舎は13日に落成式を上げ、15日から執務を開始する予定であるという。 記事原文ママで書くと「遠野町にはないきれいな建物」であり、ストーブなどの過熱により一定以上の温度に達すると電気仕掛けで自動的にベルが鳴る仕組みであるという。 … 続きを読む
e釜石・遠野・上閉伊郡 9月 4日 1952 「岩手のアプレゲール事件」釜石の心中偽装事件(昭和27年9月4日) 「アプレゲール」とは、戦後の退廃的な若者を指して言った「最近の若い者は・・・」という文脈で使われる言葉だ。 Wikipedia日本語版のこの項目で「アプレゲール犯罪」として挙げられているのは以下の事件となる。 光クラブ事件(1949年11月24日) 鉱工品貿易公団横領事件(1950年4月19日) -… 続きを読む
e釜石・遠野・上閉伊郡 9月 4日 1952 釜石立ち寄りの貨客船にアメリカの旅行団 昭和27年9月4日の岩手日報より。 2日朝に釜石に入港した「マーチン・ベェクス」(5484トン)からアメリカの12人の観光団が上陸、旧盆で賑わう釜石市内を観光した。 この船は、サンフランシスコを出帆しマグネシアクリンカー1000トンを荷揚げし、横浜に立ち寄ったのちにシンガポールへ行くという。 日本最… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 9月 3日 1952 胆沢川や猿ヶ石川に雨量計を設置 昭和27年9月3日の岩手日報より。 盛岡測候所では洪水予報の完璧を期すために、胆沢川と猿ヶ石川の流域に長期自記雨量計を設置するという。 これは、3年計画でどこに雨量計を設置すれば効果的な防災情報が出せるのかを調べるためのもの。 10か所への据え付けを予定しているという。 このことで平地や山岳部での降… 続きを読む
e釜石・遠野・上閉伊郡 9月 3日 1952 仙人峠トンネル着工(昭和27年9月3日) 昭和27年9月3日の岩手日報より。 遠野と釜石を結ぶ仙人峠トンネルが着工下という。 これは釜石鉱山の探鉱を兼ねるもので、アメリカから最新機器を導入して開始したのだという。 … 続きを読む
e釜石・遠野・上閉伊郡 3月 7日 1952 富士鉄釜石製鉄所が十勝沖地震のお見舞いお礼 昭和27年3月7日の河北新報より。 十勝沖地震は3月4日発生。 釜石製鉄所ほどの大規模な事業所になると仙台方面の付き合いも多かったのだろう。 それで河北新報にも広告となったようである。 富士製鐵は昭和25年の財閥解体で、それまでの日本製鐵が富士製鐵と八幡製鉄に分割されて発足。 昭和45年には再び八幡… 続きを読む
b二戸・二戸郡 1月 5日 1952 1市5郡で供米完了(昭和27年1月5日) 昭和27年1月5日の岩手新報より。 この当時は、米は完全に国で管理していたので、米を生産したら必ず一旦国に収めるようになっていた。 これが米の供出である。 そしてそれは、自治体ごとに統計されていた。 この時点で、その供出が完了していたのは、釜石市・気仙郡・胆沢郡・稗貫郡・上閉伊郡・下閉伊郡・二戸郡の… 続きを読む
e釜石・遠野・上閉伊郡 7月 29日 1951 遠野で子豚が犬の乳で育つ?(昭和26年7月29日) 昭和26年7月29日の「夕刊いわて」より。 上閉伊郡遠野町で、母豚に捨てられた子豚たちが、犬の乳で育つと言う珍しい事例が発生したと言う。 … 続きを読む
e釜石・遠野・上閉伊郡 5月 22日 1951 釜石製鉄所の社宅が松倉に2棟増えます!(昭和34年5月22日) 昭和34年5月22日の岩手東海新聞より。 釜石製鉄所の会社側と労働組合は、厚生委員会を開いて社宅入居規則などについて話し合った。 昭和34年度に実施される予定なのは以下の通り。 松倉に5号アパート 2棟 水道設備増強 1式 ガス配管 674戸 上中島の水道専用栓 803戸 小川に寮を新設  … 続きを読む
e釜石・遠野・上閉伊郡 1月 31日 1951 鵜住居中学校の校舎が近く完成(S26.1.31岩手新報) 現在は「釜石鵜住居復興スタジアム」が建っている釜石市鵜住居は、昭和の大合併までは「上閉伊郡鵜住居村」だった。 その鵜住居村の中学校の新校舎が建設中であった。 この鵜住居中学校が箱崎中学校・栗林中学校と合併し「釜石東中学校」となるのは昭和49年のこと。… 続きを読む