与の字橋際のカフェーの名物女の急死(S9.9.2岩手日報)
和9年9月2日の岩手日報を開くと、当時の盛岡で一際異彩を放っていた女性の訃報が、記者の感傷が混じった独特の筆致で綴られています。亡くなったのは、紺屋町の与ノ字橋の袂に店を構えていたカフェー彼女のマダム、よしえさんです。現在では東北電力岩手支店や紺屋町番屋、白沢せんべい店などが立ち並ぶあの界隈は、当時も街の社交場としての華やかさを持っていました。
よしえさんは8月31日に、わずか29歳の若さでこの世を去りました。死因は脳膜炎。現代でいう髄膜炎ですが、抗生物質が存在しなかった昭和初期において、それはあまりに無慈悲な急病でした。昨日まで元気に街を闊歩していた彼女が、岩手病院、現在の岩手医大附属病院に入院してからたった1日で息を引き取ったという事実は、当時の人々に言いようのない衝撃を与えたに違いありません。
彼女の来歴を辿ると、単なるカフェーの経営者という枠には収まらない、情熱的な歩みが見えてきます。岩手女子師範学校という、当時の女性にとっての最高のエリートコースに身を置きながら、彼女はその安定を捨てて学校を中途退学しました。その後は単身上京して演劇界に身を投じていたといいますから、若き日の彼女がいかに強い意志と表現への渇望を持っていたかが伺えます。九州の男性との結婚や、その後の盛岡での生活など、数奇な運命を辿りながらも、彼女は常に自分らしくあろうとしたのでしょう。
新聞記事の中では、頽廃的な気分を纏って市街を歩き人目を惹く、ある意味の名物女であったと評されています。女子師範で培った教養と東京の演劇界で得た感性を持ち合わせた彼女にとって、紺屋町のカウンターや中津川沿いの道は、自らを演出する劇場のようだったのかもしれません。4、5人の子供を残しての早すぎる別れでしたが、記事の結びに記された、名物女が秋と共にポッカリと死んで行ったことを惜しむ人が多いだろうという言葉からは、彼女がこの街に刻んだ確かな存在感が伝わってきます。90年前の盛岡の空に消えた一筋の光のような、そんな女性の物語がそこにはありました。
