ドッジ・ラインで岩手にも工場倒産の嵐(S24.5.10新岩手日報)

昭和24年(1949年)、戦後日本の経済を立て直すために実施されたドッジ・ラインが岩手県内の地場産業にどのような影響を与えたのか、当時の新岩手日報の記述から辿ります。

まず、この記事の背景にあるドッジラインについて解説します。これは連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の経済顧問ジョゼフ・ドッジが打ち出した経済更生策です。当時の日本は激しいインフレに直面しており、ドッジはこれを収束させるために超緊縮財政、政府補助金の廃止、そして1ドル360円の単一為替レートの設定を断行しました。この劇薬ともいえる政策により、インフレは急速に収まりましたが、一方で深刻な現金不足を招くドッジ不況が起こります。特に地方の中小企業は、資金繰りが行き詰まる賃金詰まりという現象に直面し、経営難に陥る工場が続出しました。

昭和24年5月10日付の新岩手日報には、こうした不況の煽りを受けた県内の実態が報じられています。その一つが、盛岡市上田にあった岩手鉱山株式会社です。同社は深刻な資金難から3月21日に工場を閉鎖しました。37名の従業員は、会社の経営難から閉鎖はやむを得ないという苦渋の判断を受け入れつつも、生活を守るために規定の退職金以外に解雇手当を要求し、団体交渉を行っていました。

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次に、紫波郡古館村、現在の紫波町にあった東北染色会社でも深刻な事態が起きていました。同社は1年以上にわたり経営難が続いていましたが、ようやく原料不足が緩和され、採算も好転の兆しを見せていた時期でした。しかし、ドッジ不況によるデフレと資金不足の波には抗えず、3月下旬に無期限休業を組合に通知しました。会社側は労働基準法が定める平均賃金の6割の休業手当を支払う能力すら失っており、15名の従業員を解雇せざるを得ない窮状に立たされていました。

また、盛岡市の開運橋から桜城小学校の裏手にあたる新築地地区に存在した岩手木履工業所でも、不況の影が色濃く現れています。木履、つまり下駄を製造していたこの工場では、賃貸借に関するトラブルから立ち入り禁止の処分を受け、14名の従業員が解雇されました。従業員側はこれを不当として、未払いの休業手当や退職金の支払いを求めて争う姿勢を見せていました。

かつて盛岡の上田や新築地、紫波の古館で起きていたこれらの出来事は、マクロな経済政策が地方の末端にある産業や個人の生活をいかに激しく揺さぶったかを物語っています。今では静かな住宅街や市街地となっている場所で、かつて多くの人々が時代の荒波の中で必死に生活の権利を主張していた足跡が、この記事には刻まれています。


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