ドッジ不況で盛岡市内に貸間・売家が続出(S25.2.19新岩手日報)

昭和25年(1950年)2月19日の『新岩手日報』より

戦後の盛岡市では営業不振が相次ぎ、店舗や事務所を貸間に転用する動きが急増していた。
ある木材会社では、2階建て約90坪の建物を70〜80万円で売り出し、さらに東大通りとみられるマーケットのバラック小店舗も20万円で売却に出されたという。

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本来、このような不動産売買は市町村を通じて県に届け出る必要があるが、実際には無届のまま取引される例が多く、当局の目が届かない“無統制”状態。記事は、経済の混乱が地方都市の街角にまで及んでいることを伝えている。

戦後不況の現実

当時の日本は、戦後5年を経てもなお安定にはほど遠く、特に昭和24年(1949年)にGHQの経済顧問ジョゼフ・ドッジが導入した「ドッジ・ライン」により、急激な緊縮政策がとられていた。
インフレを止めることが目的だったが、結果として企業倒産や失業者の増加を招き、全国的なデフレ不況が広がった。これがいわゆる「ドッジ不況」である。

盛岡市でも例外ではなく、商店や事業所の閉鎖が相次ぎ、空き店舗を「貸間」として活用するほか、家屋を切り売りするような動きが生じていた。
この新聞記事に登場する木材会社やマーケットの売却も、そうした苦境の中での“生き延び策”と見ることができる。

特需前夜の静けさ

この時期、日本経済はまさに底を打っていた。
人々の間には「このまま日本は立ち直れるのか」という不安が漂い、街の不動産市場にも投げ売りや現金化の動きが目立つようになっていた。

しかし、このわずか4か月後の1950年6月、朝鮮戦争が勃発。
米軍による兵站・修理・資材調達など、いわゆる「朝鮮特需」が発生し、日本の産業は突如として息を吹き返すことになる。
つまりこの記事が掲載された昭和25年2月は、特需景気という追い風が吹く直前の、最も暗い谷間の時期だったのである。

盛岡の街角から見えるもの

貸間の続出、無届の不動産取引――それらは単なる規制違反ではなく、戦後の混乱と緊縮の中で生活を守ろうとする市民の現実だった。
経済政策が国家単位で語られる裏側で、地方都市では小さな経営者たちが生き残りのために家を切り売りし、空いた部屋を貸して現金を得ていた。

昭和25年2月の『新岩手日報』の記事は、
そんな「特需前夜の不況」と「庶民のサバイバル経済」を、盛岡の街角から切り取った貴重な記録といえるだろう。


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