各町村長の顔ぶれ(S26.4.24夕刊いわて)

昭和26年4月24日付の夕刊いわてを眺めていると、昭和の大合併という大きなうねりが押し寄せる直前の、岩手県がまだ数多くの小さな町村で構成されていた頃の熱気が伝わってきます。紙面の上半分を埋め尽くす町村長選挙の当選者一覧は、まさに地方自治の細かな鼓動を記録した貴重な史料です。今では市の一部となった懐かしい地名が一つひとつの独立した自治体として誇らしげに並んでおり、それぞれの地域にリーダーが存在し、村の未来を背負っていた時代の重みが感じられます。

その一方で、紙面の下部に目を移すと、当時の社会が抱えていた影がひっそりと刻まれています。盛岡城跡のお堀である鶴ヶ池で老婆の変死体が見つかったという記事です。この場所は現在の桜山神社やもりおか歴史文化館のすぐそばであり、街の中心部で起きたこの出来事は当時の市民に強い衝撃を与えたはずです。亡くなったのは青山町に住む老婆で、当時は内丸にあった市立病院に入院中だったといいます。

この事件の背景を読み解く上で欠かせないのが、当時の青山地区が置かれていた特異な状況です。かつては観武ヶ原と呼ばれ、工兵隊や騎兵隊が駐屯する輝かしい軍都として知られた青山も、戦後は一転して海外からの引揚者が身を寄せる場所となっていました。後に住宅地として発展し、青山小学校が盛岡最大のマンモス校となる未来からは想像もつかないほど、当時は貧困や生活の困窮というイメージが色濃く漂っていた時代です。

また、老婆が入院していた市立病院の変遷も、盛岡の街の歩みそのものを物語っています。当時は内丸にありましたが、昭和35年には北上川沿いの鉈屋町へ、そして平成11年には現在の本宮へと移転を繰り返してきました。かつてお堀のすぐそばにあった病院から、ひとりの老婆がどのような思いで鶴ヶ池に向かったのか。新しい地方自治の形を模索する選挙結果という光のニュースのすぐ隣に、戦後という時代の過酷な現実が横たわっています。この一枚の紙面は、華々しい復興の歩みの裏側にあった当時の人々の切実な暮らしと、岩手の街が歩んできた複雑な歴史を私たちに静かに語りかけています。


showa
  • showa

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です