久慈に新たな市営病院を(S32.11.15デーリー東北)

昭和32年11月15日のデーリー東北は、久慈市が市直営病院の建設に本格的に乗り出したことを伝えている。10月の市議会で建設が正式に決まり、その後に行われた入札会では市内の建設会社が落札した。新しい病院は、市が所有している久慈県税事務所跡地に建てられることになった。

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完成すれば、従来の市営長内診療所は大きく姿を変える。内科・外科・耳鼻咽喉科・産婦人科・小児科・X線科まで備える本格的な医療機関となり、いわゆる“機動的な病院”として市民医療の中心を担うと期待されていた。特に周辺の僻地への診療体制強化が意識されており、医師派遣などの柔軟な運用が可能になると見られていた。

記事では「国保病院として生まれ変わる」という書き方がされているが、これには当時の医療事情が色濃く反映されている。現在のように、ほとんどの病院が公的医療保険を扱うのが当たり前になったのは“国民皆保険体制”が整った昭和36年以降のことで、昭和30年代前半にはまだ国保の運営が弱い自治体も多く、国保指定を受けていない診療所や医院も珍しくなかった。つまり、市営診療所であっても、必ずしも国保医療機関とは限らなかったのである。

このため、新しく建てる久慈市営病院を国保病院として整備することは、財源面でも医師確保の面でも大きな意味を持っていた。単なる建物の新築ではなく、制度面での“格上げ”も同時に目指していたことがわかる。

また、新病院には市内でも珍しいスチーム暖房が導入される予定で、冬の寒さが厳しい地域だけに、これは当時としては相当に先進的な設備であった。

地方医療がまだ整備途上にあった昭和30年代、久慈市がこの段階で本格的な公的病院を立ち上げようとした背景には、地域医療の底上げを急ぎたいという市の強い意欲が感じられる記事である。

 


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