田老鉱山が閉山(S46.10.30)

昭和46年頃から47年にかけて、岩手県内の鉱山が次々と休山・閉山に追い込まれた。背景には銅の国際価格の暴落やアメリカのドル防衛政策の影響があり、銅や硫化鉄鉱を主に産出していた県内の主要鉱山は一斉に採算を失っていった。

もっとも大きな衝撃となったのは、ラサ工業が田老鉱業所(田老町)の休山に踏み切ったことである。田老の鉱山は江戸時代からの歴史を持ち、昭和初期にラサ工業が経営に入り、戦時中には従業員二千人を数えた“鉱山王国”だった。戦後は機械化で合理化を進め、銅・鉛・亜鉛・硫化鉱を生産していたが、国際的な銅の供給過剰により価格が下落し、さらに硫酸が鉄鋼副産物として安価に大量生産されるようになったことで硫化鉄鉱の価値も下落した。加えて鉱石の品位そのものも落ち、莫大な赤字を抱えた田老・大峰の両鉱山は、企業にとって経営の重荷となっていった。

労組や地元自治体は休山反対で粘り強く交渉したが、昭和46年10月30日、ついに田老の“ヤマの灯”は消えた。続いて大峰鉱業所も別会社に売却され、従業員の大幅削減が条件に付された。これを受け、県と市は緊急の再就職あっせんに乗り出し、巡回相談所の開設や特定地域指定の要請、職訓の実施などに奔走し、翌春までに多くの離職者が新たな職場へ散っていった。

閉山の波は他にも及んだ。和賀郡湯田町の三菱金属・鷲合森鉱業所は、鉱石の枯渇を理由に47年に閉山した。従業員110人に加えて下請け40人を抱えた歴史ある銅山だったが、数年前からすでに採鉱を停止しており、避けがたい終幕となった。同じ湯田町の赤石鉱業所も同時期に閉じられ、往年の“湯田三大鉱山”は姿を消した。

さらに、同和鉱業が江刺市の赤金鉱業所を別会社化し、330人の従業員を半数に整理するという合理化案を47年6月に提示した。ここもまた銅価格の下落と人件費上昇で経営が悪化しており、突然の整理通告は山元を不安と動揺に陥れた。

昭和40年代前半は国際銅市況の崩壊と貿易自由化の打撃が重なり、岩手の主な鉱山は次々と休閉山に追い込まれた。かつて鉱山で栄えた田老町や湯田町は、急速に“鉱山の町”ではなくなり、地域経済と財政には深い傷跡が残った。人口流出は一層加速したが、当時これに対する十分な地域振興策は整わず、鉱山不況の影は長く尾を引くことになった。


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