江刺の暴力団抗争殺人(S35.3.11)
1960年(昭和35年)3月11日未明、東北地方の江刺市岩谷堂で暴力団同士の抗争が激化し、殺人事件が発生しました。この地域は歴史的に由緒ある静かな町でしたが、この日の午前2時半過ぎ、暴力団一家の家が日本刀を持った若い男たちに襲撃され、激しい戦闘が繰り広げられました。
襲撃されたのは、隣町水沢市を縄張りとする暴力団の幹部で、妻や舎弟夫婦と暮らしていました。この一家は、盛岡市を本拠地とする別の暴力団一家と縄張りを巡って長年対立しており、その報復として襲撃が行われたとされています。
襲撃者たちは玄関を丸太で突き破って家に侵入。家族が必死の抵抗を試みるも、多勢に無勢で追い詰められ、幹部は自宅から約100メートル離れた路上で多くの刺傷を受けて死亡しました。死因は、胸部から腹部にかけて深く刺された致命傷でした。一方、同居していた舎弟は戦闘中に足を滑らせ崖下に転落し、池に隠れて難を逃れました。
襲撃者たちは20分足らずの乱闘の後、待機させていたタクシーで逃走しましたが、警察は事件直後に緊急配備を敷き捜査を開始。犯行後、襲撃者のうち2人が3月11日当日に盛岡市で逮捕され、残る1人も4月21日に静岡県天竜市で警察の張り込みにより逮捕されました。また、襲撃を指揮した組長は、全国指名手配の末、7月5日に三重県鈴鹿市で逮捕されました。
捜査の結果、この事件は単なる偶発的なものではなく、長期間の感情的対立と縄張り争いが背景にある計画的な犯行だったことが明らかになりました。襲撃に使われた日本刀は他の暴力団員から借りたものでした。
この事件は1960年11月28日、盛岡地裁一関支部で裁かれ、実行犯らは殺人罪や傷害致死罪に問われ、それぞれ懲役5年から15年の判決を受けました。一方、襲撃に日本刀を提供した人物は、病気を理由に立件を免れる結果となり、捜査の課題として残りました。
この事件は、地方都市における暴力団抗争の深刻さを示すものとして社会に衝撃を与え、警察の捜査手法や組織的対応の重要性を再認識させる契機となりました。