東北新幹線の工事開始(S46.11.25)

昭和46年10月、東京〜盛岡間の東北新幹線建設計画が正式に認可され、ついに「高速時代」が北国にも到来することになった。前年の昭和45年に全国新幹線鉄道整備法が成立して以来、上越・成田とともに東北新幹線も優先路線として位置づけられ、国鉄が建設主体となった。そして昭和46年10月の建設認可を受け、翌月25日、一関市と前沢町の境に位置する一関トンネルから県内工事がスタートした。

東京〜盛岡の498kmのうち、岩手県内を含む約104km区間を担当するのは国鉄盛岡工事局で、まずは長大トンネルや橋りょうなど工期の長い工事を優先的に開始した。一関トンネルは全国でも五指に入る長さの難工事で、両端からの掘削だけでは間に合わないため、途中に斜坑を設け、六方向から同時に掘り進むという大規模な手法が採用された。導坑を先に掘り、その後に上半・下半を順に構築する上半工法で安全に進められた。

さらに、宮城県境の第二有壁トンネルでは、当時としては画期的な「全区間機械掘削」が導入された。地質が比較的均質なため、トンネルボーリングマシンとロードヘッダを組み合わせた日本初の方式が採用されたという。続いて京ヶ森、更木トンネルなど長大トンネルの発注も進み、県内主要トンネル工事が一斉に動き出した。

橋りょう工事も大規模だ。なかでも一関北側に建設される第一北上川橋りょうは総延長3.9kmと日本最長級で、渡河部のトラス橋と遊水地上の高架橋を組み合わせた巨大構造物となる。第二北上川橋りょうも続き、上・下北上の二本の長大橋が県内の軸となる見通しだ。

同時に、新幹線建設で在来線貨物線が使えなくなるため、盛岡新貨物駅(都南村飯岡・矢巾町畑山)と北上ヤード(相去町)の造成も急がれた。しかし、土地買収は難航し、特に盛岡新貨物駅の飯岡地区では国鉄提示額と地権者側の希望額が大きく離れたため、着工が大きく遅れた。周辺で進む他の公共事業の買収額が高かったことも交渉を複雑にした。

県内の本格工事はこれから小規模トンネル、橋りょう、駅舎、路盤と順次広がっていくが、当時の国鉄財政が極めて厳しく、新幹線建設への投資ペースが落ちるのではないかという懸念もあった。東北六県知事会は「昭和55年度開業」を早めるよう求めていたが、現場では「短縮は難しい」との見方が強まっていた。

一方、東京〜盛岡間の工事が始まったことで、次の焦点は盛岡以北へ移った。昭和47年、盛岡〜札幌の延伸計画が基本計画に組み入れられ、盛岡は終着駅ではなく途中駅になることが決定的となった。ただ、盛岡以北のルート選定では青森県内でも東回り(八戸付近)と西回り(弘前付近)で激しい誘致合戦が続き、秋田県も加わって政治問題の様相を呈していた。基本計画の段階でもルートは示されず、最終判断は昭和48年度以降に持ち越される見通しだった。

こうして、県内でも次々と工事が動き出し、東北新幹線は「図面から現場へ」、そして北国の高速鉄道網の実現へと、大きな一歩を踏み出したのである。


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