盛岡の地面師事件(S54.8.4)

昭和54年・盛岡を震撼させた土地登記簿変造事件

――「法の番人」の足元を突いた大胆不敵な地面師事件――

昭和54年(1979年)8月、盛岡市で発覚した「土地登記簿変造事件」は、当時の岩手県内のみならず、不動産取引や登記制度の根幹に大きな衝撃を与えた事件だった。舞台となったのは、国民の財産権を守るべき盛岡地方法務局。その内部で、土地登記簿という最も信頼性の高い公文書が盗み出され、巧妙に変造されていたのである。

事件発覚は昭和54年8月4日

異変に最初に気づいたのは、盛岡市上田四丁目の土地について所有権移転請求に基づく本登記作業を進めていた登記官だった。登記簿の記載内容に不自然な点がある――。この気づきから極秘調査が始まり、2日後には別の土地の登記簿が「行方不明」になっていることが判明。さらに翌日、その登記簿が何事もなかったかのようにファイルに戻されていたが、所有権欄は変造されていた。こうして事件は盛岡署に告発され、本格捜査へと発展した。

犯行の全貌――計画的で大胆な手口

捜査と裁判で明らかになったのは、極めて周到で大胆な犯行だった。
主犯格とされたのは、盛岡市の金融業者・川村巽と、紫波町の不動産ブローカー・藤原興市ら。彼らは昭和54年5月下旬から8月初めにかけ、盛岡市内の複数の土地登記簿原本を盛岡地方法務局から盗み出していた。

狙われたのは、
・所有者が独り暮らし
・県外在住
・長期間売買履歴のない空き地
といった、発覚しにくい条件の土地だった。

法務局では、近隣地番の閲覧を装って簿冊を開き、一人が係員の注意を引く間に、もう一人が身を乗り出して登記簿を抜き取る。盗み出された原本は藤原の自宅に持ち帰られ、活字や三文判を使って所有権移転や地目変更が施された。
その後、何食わぬ顔で原本を元のファイルに戻し、正式な謄本を取得。偽の所有者を仕立て上げ、この謄本を担保に金融業者から融資を引き出す――。こうした手口で、盛岡市菜園の金融業者から三度にわたり、合計6,000万円を詐取していた。

判決と社会的衝撃

事件には9人が関与し、主犯格の一人は一時逃亡したものの、10か月後に東京で逮捕。最終的に5人が詐欺、公文書毀棄、有印公文書偽造同行使などの罪に問われ、盛岡地方裁判所は「極めて手口が悪質で、社会に与えた影響は大きい」として、懲役3年6月を最高とする実刑判決を言い渡した。

一方で、この事件が残した衝撃は判決だけにとどまらない。
「本来、持ち出さない、破らないという信頼関係で閲覧制度は成り立っている」
という法務局側の説明は、逆に閲覧・管理体制の甘さを浮き彫りにした。事件後、盛岡地方法務局には自分の登記簿を確認に訪れる市民が急増し、閲覧室では鉛筆と用紙以外の持ち込み禁止、監視員の増員など、管理体制が大幅に強化された。

登記制度への警鐘

変造された登記については抹消手続きが取られ、土地の権利は真の所有者に戻った。しかし、金融業者側には、正式手続きを経て仮登記がなされていたという問題が残った。
本来、仮登記の段階で見抜けたはずの変造を見過ごした登記官のミス――。この点は、制度運用上の重大な欠陥として厳しく指摘された。

当時、登記業務は急増の一途をたどり、所有権移転や抵当権設定は年間28万件、謄抄本交付は戦後20数年で90倍以上に膨れ上がっていた。その“隙”を突いたこの事件は、国民の財産を守る制度が、いかに信頼の上に成り立ち、同時に脆さも抱えているかを突きつけたのである。

昭和54年夏の土地登記簿変造事件は、不動産犯罪の新たな手口として記憶されるとともに、登記制度と管理体制に大きな警鐘を鳴らした出来事だった。


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