岩手県交通の泥沼の労使紛争がやっと妥結(S56.10.21)
岩手県交通の再建合理化紛争は、かつて岩手の春の風物詩とも称されたストライキの中でも、特に激しい足跡を残した歴史的な事件でした。昭和55年の春闘から始まったこの紛争は、会社の存亡を懸けた合理化案を巡り、労使が文字通り泥沼の対立を繰り広げた記録でもあります。
当時の松尾景康社長率いる会社側は、深刻な資金難と経営再建を理由に、労働組合側が要求した平均2万1,000円の賃上げや年間5カ月分の臨時給に対し、経営合理化が先決であるとして有額回答を拒否し続けました。これに対し、県バス労連は昭和55年4月17日に24時間ストを決行し、5月31日には県交通労組として一本化される中で対立はさらに深まっていきました。
事態が大きく動いたのは昭和55年の夏でした。組合側は7月30日から段階的にストを実施し、8月11日からはついに無期限ストへと突入します。地方労働委員会による懸命のあっせんが行われ、一度はストが中止されたものの、9月に行われたあっせん作業でも、臨時給の回答を巡る両者の溝は埋まりませんでした。地労委が「金が関係する以上、両者の主張を足して2で割るような案は作れない」と断念するほど、交渉は行き詰まりを見せました。
10月に入ると事態は再び緊迫し、15日には8度目のスト、そして20日からは再び無期限ストへと突入する構えを見せました。しかし、翌21日に至り、ようやく労使の間で合理化協定書と賃金に関する確認書が調印されました。この合意により、10月分から平均1万1,700円の賃上げが実施され、臨時給は夏冬合わせて2.0カ月分とすることで決着しました。その一方で、ワンマン化の推進や不採算路線の整理、余剰人員の配置転換といった厳しい合理化策を組合側が受け入れるという、苦渋の解決でもありました。
この紛争は昭和56年の春闘まで影響を及ぼしましたが、最終的には金融機関からの融資も決まり、会社再建は新たな段階へと進んでいきました。当時の県民にとって、春の訪れとともに繰り返されたストライキは、生活の不便を強いるものでありながら、どこか時代の激しさを象徴する出来事として記憶に刻まれています。