大政翼賛会岩手県支部発足(S15.12.24新岩手日報夕刊)

皆さん、こんにちは。
今日は、歴史の1ページを紐解く貴重な資料をご紹介します。

今から84年前、昭和15年(1940年)12月24日付の『新岩手日報』夕刊(実際の発行は23日)です。
この日の紙面を埋め尽くしているのは、岩手県における戦時体制の大きな転換点、**「大政翼賛会 岩手県支部」の発足**を伝えるニュースです。

挙県、臣道実践に邁進

まず目に飛び込んでくるのは、紙面右側の力強い太字の見出しです。

「擧縣、臣道實踐に邁進」
「翼賛會支部茲に結成」

前日の12月23日午後1時、皇太子殿下(後の上皇陛下)のご誕生日にあわせ、盛岡市の公会堂で結成式が行われました。
記事には**「百十万県民一丸となり」「勇往邁進の輝かしき発足」**とあり、当時の熱狂と、逃れられない時代のうねりを感じさせます。

【解説】大政翼賛会(たいせいよくさんかい)のアウトライン

ここで、この組織がどのようなものだったのか、その全体像をおさらいしておきましょう。

  • 結成の背景:昭和15年10月、近衛文麿首相の提唱した「新体制運動」によって誕生しました。日中戦争が長期化する中、国を挙げて戦争を支える体制を作る必要がありました。
  • 政党の解消:それまであった立憲民政党や立憲政友会などの既成政党はすべて解散し、この大政翼賛会に合流しました。これにより、議会によるチェック機能は事実上失われました。
  • 役割と目的: 「天皇の政治を助ける(翼賛する)」という名目のもと、政府の意向を国民の末端まで伝える伝達機関となりました。
  • ピラミッド型組織:総裁は首相、都道府県支部長は知事、郡市町村支部長は各首長が務め、その下には「隣組」が配置されました。これにより、食糧配給から思想統制、献金の呼びかけまで、国民の私生活すべてが管理下に入りました。

つまり、この日の記事は**「岩手県における全県民を挙げた戦争協力体制が、名実ともに完成した」**ことを宣言するものだったのです。

役員の初顔合わせと「決意」

紙面中央には、支部の役員たちが初めて顔を揃えた「初顔合わせ」の様子が報じられています。
記事には、応召(軍への召集)を覚悟した決意や、信念の披露が行われたことが記されています。
単なる事務的な組織の発足ではなく、県幹部や有力者たちが「国家の危機に際して命を懸ける」という悲壮な覚悟をもって臨んでいたことが伺えます。

緊迫する国際情勢

興味深いのは、翼賛会結成のニュースの傍らで、当時の国際情勢も大きく報じられている点です。

  • 「駐米大使にハ外相」:イギリスのハリファックス外相が駐米大使に任命されたニュース。
  • 「媚態に汲々たる英国」:イギリスがアメリカの援助を引き出そうと必死である、という当時の日本側の冷ややかな視線が「媚態(びたい)」という強い言葉に表れています。
  • 「繋留船の…」:イタリア船の拿捕に関する記事など。

国内が翼賛体制で固められていく一方で、外の世界では第二次世界大戦の火の手が広がり、対米関係が悪化していく様子が紙面から生々しく伝わってきます。

生活の細部まで「戦時」へ

さらに紙面の下部には、**「浄法寺も町制」**という地元のニュースや、各地での協力体制についての記事も見られます。

この昭和15年という年は、いわゆる「紀元二千六百年」の奉祝ムードに沸いた年でもありましたが、この年末の翼賛会支部発足を境に、岩手の人々の暮らしはよりいっそう、戦争へと直結する厳しいものへと変貌していきました。

終わりに

今回、この古い新聞紙面を見て感じたのは、当時の新聞が持つ「熱量」と、それとは裏腹の「危うさ」です。「県民一丸」という言葉が、どのような未来へ繋がっていったのか。

クリスマスイブという華やかな現代の12月24日ですが、かつての同じ日、私たちの先祖がどのような言葉を読み、どのような決意を固めていたのか。こうした資料を通じて歴史を振り返ることは、今を生きる私たちにとって非常に大切なことではないでしょうか。

(編集後記)

この紙面は、文字が潰れかかっている部分もありますが、当時の印刷技術や語彙を知る上でも非常に貴重な資料です。皆さんのご家庭にも、古い新聞が眠っていませんか?

 


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