水沢出身・斎藤実に組閣の大命(S7.5.23岩手日報)

【歴史の転換点】1932年5月23日、岩手の巨星・斎藤実が受けた「組閣の大命」

1932年(昭和7年)5月23日。この日の岩手日報の紙面には、重苦しくも力強い大きな見出しが躍っています。

「斎藤子、午後六時参内 組閣の大命を拝す」

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「五・一五事件」で犬養毅首相が凶弾に倒れてからわずか8日後。テロの恐怖が蔓延し、政党政治が崩壊の危機に瀕する中、次期首相として白羽の矢が立ったのは、現在の奥州市水沢出身の海軍大将・斎藤実(さいとう まこと)でした。

■ 「政党人」としての苦渋と、斎藤実への信頼

この紙面で最も興味深いのは、当時の大矢馬太郎盛岡市の談話です。立憲政友会に属する筋金入りの政党政治家であった大矢市長は、本来、軍部や官僚が主導する「超然内閣」の誕生には断固反対の立場でした。しかし、彼はこう語っています。

「政党人として超然内閣は困るが、斎藤さんなら」

この言葉には、当時の政治家たちが抱いていた危機感と、それを超える斎藤実への絶大な人格的信頼が凝縮されています。「この非常事態を乗り切れるのは、私利私欲のない郷土の先輩しかいない」という、党派を超えた祈りにも似た決断が読み取れます。

■ なぜ、斎藤実だったのか?

当時、憲政の常道(政党政治)を中断してまで、なぜ斎藤実が選ばれたのでしょうか。そこには3つの大きな理由がありました。

  • 軍部の暴走を抑える「海軍の長老」: 海相を長年務め、軍内部に睨みが効く数少ない穏健派であったこと。
  • 圧倒的な実務能力: 朝鮮総督として、武力ではなく対話による「文化政治」を推進し、混乱を鎮めた実績。
  • 「宝珠山」と呼ばれた誠実さ: 欲がなく、清廉潔白。政敵ですら認めざるを得ないその「人間力」が、バラバラになった国を繋ぎ止める唯一の接着剤でした。

■ 歴史の目撃者としての岩手日報

紙面には「縣民挙って歓迎」「献身考慮を尽し、御奉答申し上げます」という言葉が並びます。大凶作に苦しんでいた当時の岩手県民にとって、郷土から出たこの「最後のリリーフ」は、まさに希望の光だったはずです。

五・一五事件という悲劇から始まった斎藤内閣。それは、岩手の粘り強い精神が日本の舵取りを任された瞬間でもありました。この1枚の古い新聞は、平和を願い、身を捧げようとした一人の男の覚悟を今に伝えています。

※写真は昭和7年5月23日付「岩手日報」より引用


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